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東京地方裁判所 平成4年(刑わ)2244号 判決

主文

1  被告人Aを懲役六年に処する。

未決勾留日数中一〇〇〇日を右刑に算入する。

2  被告人Bを懲役四年に処する。

未決勾留日数中一〇〇〇日を右刑に算入する。

3  被告人Cを懲役四年に処する。

未決勾留日数中一〇〇〇日を右刑に算入する。

4  被告人Dを懲役五年に処する。

未決勾留日数中一〇〇〇日を右刑に算入する。

5  被告人Eを懲役四年に処する。

未決勾留日数中一〇〇〇日を右刑に算入する。

6  訴訟費用は全部被告人らの連帯負担とする。

理由

(罪となる事実)

被告人Aは、静岡県富士宮市内に本拠を置く暴力団甲野組系乙山組本部長補佐及び同組内丙川組若頭であったもの、被告人Bは、右乙山組内丁原組組員であったもの、被告人Cは、右乙山組内戊田会幹部等であったもの、被告人Dは、右乙山組内甲田組若頭補佐であったもの、被告人Eは、右乙山組内乙野会若頭であったものであるが、被告人五名は、映画監督伊丹十三(本名「池内義弘」、当時五九歳)が暴力団の民事介入暴力事件を題材にした映画「ミンボーの女」を製作し、新聞、テレビ等で、暴力団と毅然と対決し、社会から暴力団を排除すべきことを訴えたことに対し、右の発言が暴力団を愚弄するものと考え、懲らしめのために右伊丹十三を襲撃することを企て、共謀の上、平成四年五月二二日午後八時三〇分ころ、東京都世田谷区赤堤三丁目二二番五号「第参コーポ緑」前駐車場で、右伊丹十三に対し、被告人Dにおいて所携のナイフでその左顔面、頚部等を数回切り付け、よって、同人に全治まで約三か月間を要する顔面・頚部・左手切創の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)《略》

(事実認定の説明)

[目次]

第一章  事件の発生及び被告人らの逮捕等

一  事件の発生、犯人目撃状況

二  伊丹監督の活動状況等

三  被告人らに対する起訴の経緯

第二章  本件の争点

第三章  被告人らと犯行を結び付ける証拠

第一  証拠の概要

第二  客観的な事実

第三  関係者の供述

一 F

二 G

三 H

四 I子

第四  小括

第四章  被告人らの弁解

第一  襲撃計画の中止について

第二  アリバイについて

一 被告人Aのアリバイ

二 被告人Cのアリバイ

三 被告人D、同B、同Eのアリバイ

第五章  被告人C、同A、同Dの各自白の任意性及び信用性

第一  被告人Cの自白

第二  被告人Aの自白

第三  被告人Dの自白

第六章  まとめ

第一章  事件の発生及び被告人らの逮捕等

一  事件の発生、犯人目撃状況

映画監督伊丹十三こと池内義弘(以下、「伊丹」あるいは「伊丹監督」という。)は、平成四年五月二二日午後八時三〇分ころ、外出先から一人普通乗用自動車(ベントレー・品川《番号略》・2ドア)で、東京都世田谷区《番地略》「第参コーポ緑」の自宅に戻り、自宅前駐車場に車を停めて車外に降り立ち、後部座席の荷物を取ろうと、左側運転席の座席背もたれ部を前に倒し、後部座席の方に上半身を乗り入れ右腕を伸ばしたその時、背後から人がぶつかってきたような衝撃を受けて前に倒れ込むと、顎の下のあたりに腕を巻き付けられ抱きかかえられるようにされて車内に押し込まれ、身動きのできない状態にされた上、左顔面等を鋭利な刃物で数回切り付けられた。犯人はすぐ伊丹から離れて逃走し、伊丹が車から後ろ向きに這い出て振り返ると、三人の男が五メートルないし一〇メートル先を走っており、そのうちの後方を走っていた二人の男は身長一六〇センチメートルくらいで小柄だった。伊丹がその後を追い掛けると、三人の男は約二五メートル先の道路端(世田谷区赤堤三丁目二三番九号さくら銀行赤堤通社宅新築工事作業所前)に停めてあった車に乗り込み、そのまままっすぐ西方へ逃走したが、伊丹が犯人を追跡して発進直前の同車の後ろまで追いついた際車のナンバーを見て、下四桁が「《略》」であることを確認した。

伊丹は、妻の通報により臨場した救急車両で、直ちに東京女子医科大学病院に収容され治療を受けたが、右犯行により、全治まで約三か月間を要する(1)左頬部より左耳垂下部に至る長さ約一三センチメートルの切創、(2)左耳介前方より耳介全層断裂を伴い後頚部に至る長さ約二〇センチメートルの最も深い切創、(3)左下眼瞼より左外眼角に至る長さ約五・五センチメートルの切創、(4)その他左鼻翼外側、左耳垂部、左下顎角部に皮下組織に達する小切創、左手背部に小指伸筋腱の断裂を伴う長さ四センチメートルの切創等の傷害を負った。

伊丹の目撃による逃走車両は、暗い色のファミリーカータイプで車種は不明であったが、他の目撃者により川崎ナンバーであることが判明し、捜査の結果、車両に付けられていたナンバープレートは、世田谷区内の路上に放置されていた白色クラウンから同月一八日以降に取り外され盗まれたものであることが判明した。

二  伊丹監督の活動状況等

伊丹は、映画監督として「お葬式」「マルサの女」等の作品を製作していたものであるが、平成三年四月から民事介入暴力を題材とした映画の構想を抱いて取材活動をし、同年一二月一〇日映画「ミンボーの女」の製作を発表し、翌四年一月一三日クランクイン、三月一日クランクアップの各記者会見、四月一五日完成披露試写会を行い、事件の約一週間前の五月一六日映画が封切り公開された。その内容は、暴力団が、名門ホテルの民事問題に強引に介入し、ホテルの担当者の不適切な対応のため、ホテルは一時暴力団の餌食となるが、その後弁護士や警察の指導、助力を得て毅然と対応し、暴力団を排除する体質に生まれ変わるというもので、この映画の製作発表後、伊丹監督は連日のようにテレビ、新聞等の取材を受け、「ヤクザが人々を恐怖で支配し、屈辱を強いることは許せない。平凡な一市民でも正しい戦い方を知っていればヤクザと戦って勝つ方法があるということをこの映画で伝えたい。」等と発言し、暴力団に毅然と対応して闘っていくことを広く訴えていたものであり、右発言は「怖いヤクザと闘う方法教えます」「やくざの虚像を暴きたい」「伊丹監督今度は〈暴〉こらしめ!」「ヤクザ撃退のマニュアル」「ヤクザに泣き寝入りしない」等の見出しを付されて報道された。折しも、右の映画の製作過程は、暴力団排除の世論の高まりを受けて成立した「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(暴対法)」の立法、施行過程と軌を一にしていたため、伊丹監督は、平成四年三月一日暴対法が施行された際の反対デモについてもコメントを求められ、「暴力団にも人権というけれどそれなら暴力団に脅されている人の人権とどちらが大切なんだ。」等と発言し、四月一〇日広域暴力団甲野組聴聞会における「暴力団ではなく任侠の組織である。」との組側の主張に対しても、「戦い方は上手ですね。ケンカの名人ですから。サッと弱者に早変わりしたりそういうのはたいしたものだと思います。日本というのはやさしい国ですね。これだけやっても解散しなさいと言うほどではないのですから。」と述べ、また、四月二四日実施されたミンボーシンポジウムにもパネリストとして参加し、「暴力団なんてものは若い人がやらなくなれば、上の人達だけでピストルの撃ち合いをする訳ではないのですから。若い人達を暴力団にさせない、又は脱退させるかが今後の問題。」と発言して、暴力団に対し否定的な見解を繰り返し述べ、これらが広く報道されていた。

三  被告人らに対する起訴の経緯

事件発生後約半年が経過した平成四年一一月二八日、暴力団甲野組系乙山組組員である被告人五名に対して逮捕状が発付され、一二月三日午後六時ころ、警視庁刑事部捜査第四課等において全員が逮捕された。被告人らは、当初犯行を否認していたが、同月一九日に被告人Cが、次いで、勾留満了日である二四日に被告人A、同Dが、それぞれ犯行を自供し、同日被告人五名の共謀による犯行として本件が起訴された。

第二章  本件の争点

検察官は、本件は、甲野組系乙山組幹部の被告人Aが、映画、新聞等を通じて、伊丹監督が暴力団に毅然と対応し、これを社会から排除すべきことを広く市民に訴え、暴力団の実態に様々な論評を加えていたことにつき、暴力団を侮辱するものとして憤激し、伊丹監督を懲らしめるため、同人を襲撃することを計画し、同組傘下の組員の被告人Cをして伊丹監督の住居、使用車両等を調査させ、同じく被告人D、同B、同Eをしてこれを実行させるなどして、本件犯行を遂げたものであると主張する。これに対し、弁護人は、被告人Cが単独で伊丹を襲撃することを計画し、伊丹の会社の登記簿謄本を取るなどして伊丹の住居を調査したが、計画を打ち明けた被告人Aに説得されて途中で実行を断念したものであって、被告人五名が本件を共謀した事実も、実行した事実もない旨主張し、被告人らも当公判廷で揃ってこれに沿う供述をしている。

第三章  被告人らと犯行を結び付ける証拠

第一  証拠の概要

本件においては、被告人らと犯行を直接結び付ける物的証拠は乏しく、犯行に用いられた凶器や逃走車両も発見されていないが、犯行と被告人らとの関連性をうかがわせる客観的な事実が存するほか、被告人らの関与を強く推測させる被告人らの周辺関係者の供述があり、これらの証拠によっても、被告人らが本件犯行を行ったことをほぼ認定することができ、さらに被告人A、同C、同Dの自白を総合すると、本件は被告人Aを首謀者とし、他の被告人らと共謀の上敢行された犯行であると断定することができる。そこで、以下においては、まず自白を除いた関係証拠を検討し、次いで被告人らの自白の任意性、信用性について判断することとする。

第二  客観的な事実

1 被告人Cは、平成四年五月六日及び八日、二回にわたり、東京法務局港出張所において、東京都港区《番地略》秀和狸穴レジデンス三〇三号室所在の株式会社伊丹十三事務所の商業登記簿謄本を申請し(秀和狸穴レジデンス三〇三号室には伊丹プロダクションとの表示がある。)、その交付を受けていること

〈1〉 被告人C申請に係る平成四年五月六日付け及び同月八日付け謄抄本申請書二通(平成五年押第二六三号の1・2)

〈2〉 右謄抄本申請書の差押調書(検甲18)

〈3〉 右謄抄本申請書の筆跡鑑定書(検甲19)

2 被告人Cと同じ乙山組内戊田会に属する組員Jは、五月一二日、戊田会本部事務所近くの東京都渋谷区笹塚所在のビデオレンタル店「ルート00」において、「マルサの女」と「お葬式」の二本のビデオテープを借り出し、未返却のままになっていること

〈4〉 ビデオレンタル店店長K子の警察官調書(検甲27)

3 被告人Aが、五月一三日、乙山組の関連会社丙山が入居している東京都新宿区《番地略》所在の戊原ハウス近くのクリーニング店「クリーニング丁川」に出した背広のポケットに、伊丹プロダクションの住所や伊丹十三、宮本信子(伊丹の妻池内信子)の名前が書かれたメモ四枚が入っていたこと

〈5〉 メモ四枚(同押号の4~7)

〈6〉 「A」様宛の五月一三日付け預り書控(同押号の3)

〈7〉 クリーニング店店員L子の証言

4 被告人Aが、五月中旬ころ、暴力団風の男と二人でBMW(沼津《番号略》)に乗り、伊丹プロダクションの入居する秀和狸穴レジデンスを下見していること

〈8〉 秀和狸穴レジデンス管理人Mの証言

〈9〉 BMWの写真撮影報告書(検甲71)

5 被告人Aら乙山組関係者が利用していた静岡県富士宮市内の丙原自動車を通じて、五月七日、伊丹が使用していたベントレー(品川《番号略》)の登録事項等証明書等の交付が請求されてその交付がされ、次いで一五日にも、伊丹の妻が使用していたポルシェ(品川《番号略》)につき同様に登録事項等証明書等の交付が請求され、その交付がされていること

〈10〉 登録事項等証明書交付申請書、手数料納付書、登録事項等証明書写し各二枚(同押号の30~35)

6 被告人五名は前記戊原ハウスに出入りしており、特に被告人B、同E、同Dの三人は、五月一〇日ころから、シルバーか濃い緑のメタリックのローレルに乗って度々戊原ハウスに出入りしていたが、同月二二日午後五時半ころ、三人でローレルに乗り戊原ハウスから出かけていること

〈11〉 N及びO子の各証言

(右〈1〉ないし〈11〉の証拠は、1ないし6の各事実に対する主要な証拠を適示したものである。)

なお、弁護人は、右3の事実につき、被告人Aは、五月一二日被告人Cを説得して伊丹監督を襲撃する計画を断念させ、Cから預かったメモ四枚を丸めて屑篭に捨てたのであるから、そのメモが背広に在中しているはずがなく、内通者が屑篭から入手して警察に提出した可能性があるとし、L子が証言するメモの押収経緯、すなわち、二二日テレビニュースで事件を知り関係があるのではないかと思ったため、メモを返さず持っていて、六月下旬に警察に見せ、一二月中旬に任意提出したというのは不自然で信用できないと主張する。

しかし、メモを見たことが被告人Aら乙山組組員に知れることを恐れメモを返さなかったという当時のL子の心情は理解でき、六月末ころ警察官が事情聴取に訪れた際メモを見せ、六月二八日これを任意提出したとの経緯にも不自然な点はない(なお、一二月一二日に提出されたのは背広の預り書控であり、メモではない(検甲33・34)。)。そしてメモには、二つに折り畳まれた痕跡があるだけで、屑篭に捨てられたような状況はうかがわれないのであって、L子証言によって認められるメモの押収経過は十分信用できる。

また、弁護人は、右4の事実につき、被告人CがBMWに乗って一人で秀和狸穴レジデンスを下見したことはあるが、被告人Aが下見に行ったことはなく、Mは、BMWがAの車であると警察官から聞かされ、二人とも眼鏡をかけていることからCとAを取り違えたもので信用できないと主張する。

しかし、Mは、二人の男が一見して暴力団員風であったため非常に不審に思い、BMWのナンバーをノートに書き留めるなど注意を払い、三、四メートル先を二回にわたり男が横切った際も三、四秒間注視していたというのであって、その記憶は正確であると考えられるし、二人のうち一人の男の顔については記憶がはっきりしないとして、被告人Cに面通しさせられた際も明言を避けており、警察官の暗示を受けているとも思われない。M証言の信用性も十分肯定できる。

第三  関係者の供述

一 F

(一) F供述の要旨

右Fは、平成三年一一月ころ前記戊田会の組員となり、被告人Cの弟分的立場にあったものであるが、平成四年九月一一日恐喝罪で起訴され勾留中、第一回公判を挾んだ前後に取調べを受け、検察官に対する同年一〇月一五日付け及び同年一一月二日付け各供述調書において、概略次のとおり供述している。

「平成三年一一月ころ戊田会組員となり、戊田会理事長代行であった被告人Cと知り合った。翌四年四月下旬ころ、Cからポケベルで呼び出され、Cが泊まり込んでいた新宿歌舞伎町の甲川というビジネスホテルに行くと、Cは会社四季報のような本で伊丹の関係する会社を調べており、伊丹が「ミンボーの女」というふざけた映画を作ってやくざをばかにするような発言をしているので、襲撃を計画していると打ち明け、伊丹の映画のビデオを借りてきて、そのパッケージが最後に流れるテロップを見て会社名を調べるように頼んできた。そのような危ない計画に巻き込まれたら大変だと思い返事を渋っていると、誰かに頼むように言われ断れなくなった。このときCの札入れの中には三、四〇万円入っており、伊丹襲撃の活動費としてAから預かっていると説明した。

五月五日ころCに金を貸してくれと頼まれ、前妻のP子から一万円借り、娘を連れて新宿駅の地下ロータリーに行ったところ、Cから伊丹の調査を催促されたので、堅気のころパチンコ店で一緒に働いていたことのあるQに電話で頼んだ。QがNTTの番号案内で調べて直接会社に電話すればいいなどと言うので、断られては困るし、やくざになったことを自慢したいという気持ちもあって、伊丹襲撃を計画していることを打ち明けた。その日の午後一〇時ころ、Qが伊丹プロダクション等の会社名を調べて電話をくれたのでそれをメモし、すぐCに電話で伝えたが、Cは、会社の住所が分からなかったことについて不満気であった。

それから一七日までの間と思うが、P子と娘と三人で上野の映画館の前を歩いている時「ミンボーの女」の立て看板を見つけたので、P子にもCらが伊丹襲撃を計画していることを話し、Cに聞き直されて答えられないと困ると考え、看板の製作会社名等をメモ紙に書き写したが、そのメモは警察に押収された。

五月一〇日前後ころ、Cから型の古いセドリッククラスの国産車の調達を頼まれ、その口調から襲撃に使うのだと思ったが、しつこく頼まれたので一応知人のRに聞いてみたところ断られた。一五日ころ、今度は車検切れの車のナンバープレートを使いたいのだが知らないかと尋ねられたが、関わり合いになりたくないので断った。

五月一二日午後三時ころ、Cから戊田会本部事務所に電話があり、戊田会組員のJが電話でCと何か話していた。電話の後、Jから、健康保険証でビデオを借りられるかとか、二千円くらい貸してくれとか言われ、金を貸してやるとJは事務所を出ていき、三〇分くらいして「マルサの女」と「お葬式」のビデオを持って帰ってきた。

事件後一週間くらいしてCから電話があり、Cら乙山組関係者が犯行に及んだことや、盗んできたナンバープレートを付け替えた車を逃走車両に使用したこと等を打ち明けられ、固く口止めされた。

六月中旬ころには、乙山組乙原会のSから、伊丹襲撃のため乙原会にも動くようにという話があったが、先にAとその若い衆のEが動いたという話を聞いた。」

(二) F供述の信用性の検討

Fは、検察官の取調べにおいて以上のとおり供述(以下、同人の検察官調書における供述を「F供述」という。)しているところ、公判廷において、「Cからは、破門になった会長のTを乙山組に復帰させるため、伊丹を個人として襲撃しようと考えていると打ち明けられたもので、Aが関与しているとは聞いていない。Cが三、四〇万持っていたのを見てはいないし、五月に車の調達を頼まれたこともない。Jがビデオを借りたことも知らない。事件後に被告人らが犯件に関与したことを聞いたこともない。」などと証言し、捜査段階における前記供述は取調官に強要されてその場逃れに述べたものである旨証言(以下、同人の公判廷における証言を「F証言」という。)している。

しかし、F供述は、Cから伊丹の会社名等の調査や車の調達を頼まれた経緯や状況を極めて具体的、明確に述べており、甚だ臨場的である。しかも、F供述は、Cの取調べがされていない段階における供述であって、取調官がFに無理に言わせたとは考え難く、FとCしか知り得ない内容を随所に含む体験的な供述との印象を強く受ける。また、戊田会組員Jが前記のとおり、五月一二日戊田会本部事務所近くのビデオレンタル店で「マルサの女」と「お葬式」の二本のビデオテープを同人の健康保険証を使用して借り出していることや、「ミンボーの女」の立て看板の製作会社等を書き写したというメモ(平成五年押第二六三号の15)がF宅から押収されていること、伊丹プロダクション等の名前をCに教えた翌日Cが同プロダクション(伊丹十三事務所)の商業登記簿謄本を申請していること等客観的事実とも符合している。

さらに、Fの知人のQ、R、Fの前妻P子も、公判廷において、次のとおり、それぞれF供述に沿う証言をしている。これらの者は、暴力団関係者ではなく、暴力団関係者が多数傍聴する公判廷において、ことさら虚偽を述べているとは思われず、信用性を疑うべき事情は全くない。

(1) Qの証言

「平成四年五月五日午後九時ころ、Fから自宅に電話があり、『伊丹監督の撮ったミンボーの女という映画に撮ってはいけないものが映っている。それについてかたをつけなきゃいけないので伊丹の事務所の名前や住所を調べてくれ。ビデオショップに行って「お葬式」とか「あげまん」とか「マルサの女」とかいった類のビデオを借りて、それを見れば出ているんじゃないか。』と頼まれた。Fの家の近くにビデオショップがないので見て来てくれという話だった。NTTの番号案内で伊丹とつく会社の電話番号を聞いて直接電話して聞けばいいと言ったが、休日で調べられないと言うし、大したことではないと思ったので、電話の後すぐビデオショップに行って、ビデオのパッケージに書いてある「伊丹プロダクション」「ニューセンチュリープロデューサーズ」「イー・ティー」「テレビマンユニオン」「伊丹フィルムズ・インク」「細越省吾事務所」等の名前を五、六個記憶して帰り、午後一〇時ころFに電話で教えた。Fは一文字一文字聞き返すようにしており、電話口でメモをしている様子だった。」

(2) Rの証言

「平成四年五月中ころ、Fから自宅に電話があり、『中古車で、グレードが高く速くて、更に4ドアの車はないか。』と頼まれた。クラウン、セドリック、ローレルの名前を挙げていた。知らないと答えると、『Rちゃんの車、丸一日貸してくんないか。』と言ってきた。修理中だと断ると、Fに疑われたので、少し頭にきて一方的に電話を切った。」

(3) P子の証言

「Fとは平成三年一〇月から別居していたが、平成四年六月離婚するまで、月に一、二度は泊まりに来ていた。平成四年四月下旬から五月中旬の間に、Fに組の上の人から電話があって、伊丹監督の映画会社を調べるように言われていた。電話の声は、五月五日に一万円貸してくれるよう頼んできたときのCの声に似ていた。やはり四月下旬から五月中旬にかけて、Fは、上野の映画館の前の「ミンボーの女」の立て看板の前に立ち止まってメモしながら、『上の人から頼まれたので調べている。』『近いうちに伊丹に何かあるかもしれない。』『俺の組の者か暴力団の者がやると思う。』等と話していた。事件の翌日の電話では、『俺はやってない。心配するな。同じ組の者か名前は分からないが、俺の周りの関係者だ。』と言っていた。」

なお、弁護人は、Fの恐喝事件は、本件について取り調べる目的で立件されたものである上、Fは、取調べ警察官から、テレホンカードの変造等他の事件についても立件するとか妻も逮捕するなどと脅迫されて、関知していない事項についても供述を強要されたと主張するが、恐喝事件については実際に起訴されていて別件逮捕とはいえないし、恐喝文言を否認したまま起訴されていることや、Fは本件についての調書を録取された約三か月に取調べ警察官宛に妻の就職の世話を頼む電報を送っていること(平成五年押第二六三号の16・17)などに照らすと、取調官の脅迫に屈して虚偽の供述をしたとは認められず、この点に関するF証言は信用できない。

以上のとおり、F供述は、その供述内容、供述経過その他関係者の証言等に照らし、十分信用することができる。

二 G

(一) G証言の要旨

乙山組内戊野組本部長の地位にあった右Gは、平成四年三月一〇日出所後、東京都港区《番地略》所在の丁田ビルにある乙山組の関連会社戊山の社員として債権取立て等に従事し、同年四月上旬以降被告人Cとは五分の兄弟として親しく付き合っていたもので、その後平成五年三月五日覚せい剤所持の罪で逮捕されて服役し、その間本件について取調べを受けているが、当裁判所の期日外尋問において、概略次のとおり証言している。

「Cは、平成四年四月中旬ころから新宿歌舞伎町の甲川というビジネスホテルに泊まり込んでいた。そのころCは、伊丹が「ミンボーの女」というやくざをばかにした映画を作り、雑誌、テレビ等でやくざは怖くないなどと発言をしているので、けじめをつけなければいけないとの話をし、伊丹のことをいろいろ調べていたが、その後四月下旬にかけて、伊丹のやっている会社の名前や住所が分からないと言っており、調査があまり進展していないような口振りだった。Cと電話をした時や飲みに行った時に、被告人Aが裏の仕事の責任者で、伊丹襲撃について指揮をとるということも聞いた。ゴールデンウィークの直後ころ、Cは伊丹の会社の登記簿謄本を取っていた。

五月一二日ころ、Aの指示で被告人Eと待ち合わせ、Eの運転する黒っぽい車で神奈川県の湯河原に向かった。二、三日前にCから伊丹が湯河原に住んでいることを聞いていたので、湯河原に行く理由は察しがついた。午後一一時ころ、「湯河原丙田ボウル」というボーリング場に着くと、駐車場にAのBMWが停まっていて、近づくとAが降りてきた。Aは、BMWを東京の乙山組関連会社丁野の駐車場に運ぶよう指示し、後はCと話すように言うと、Eの運転する車に乗り込んだ。BMWには、被告人B、同Dも乗っていて、後部座席で着替えをしていたようだったが、自分が助手席に乗り込むと同時に降りていった。運転席のCと二人になると、Cから手提げ紙袋を渡された。中には本三冊、茶封筒、ポシェット入りの護身用スプレー二本、さらしに巻かれた刃物四本(赤っぽい柄のナイフ、緑の柄のナイフ、ステンレス製のナイフ、白木の繰り小刀)が入っていた。伊丹の件で用意してきたが、居なくて使わなかったということだった。書類関係は至急処分し、刃物とスプレーはまた使うので保管しておくよう言われた。ステンレスのナイフは形が気に入ったのでもらった。Cらと別れて東京に帰り、紙袋の中を改めたところ、本は地図帳二冊と芸能関係の本で、茶封筒の中には伊丹の会社の登記簿謄本が二部入っていた。ナイフはいずれも折り畳み式で、赤い柄のものは刃の峰にぎざぎざがあり見るからにグロテスクなもので、緑の柄のものは握りの部分が指の形に波状になっているものであった。ポシェットはビニール製で緑と茶のペイズリー模様のものであった。翌朝登記簿謄本は細かくちぎってごみに出したが、地図帳は書き込み等がなかったのでそのまま家に置いておいた。翌一三日か一四日ころCからまた戊山に持ってくるように言われ、一五日昼ころ刃物三本とスプレーの入ったポシェットをCに返した。

Aから、三人ほど上京してしばらく戊山に寝泊まりするとの話は聞いていたが、一四、五日ころからB、D、Eが寝泊まりするようになり、事件の二、三日前まで居た。そのころ戊山の和室にビデオデッキが持ち込まれたが、事件後しばらくしてから、これで伊丹のビデオを見たとCから聞いた。ビデオデッキはもう不要だというのでもらった。

事件の翌日の昼ころ、Cの携帯電話にかけると、Cは新宿に居て『俺がやったんだ。』と言っていた。二五日夕方ころCのセドリックを貸してもらうためCに会ったが、そのとき再び伊丹襲撃の道具の保管を頼まれた。二六日昼ころ、戊山で、以前預かったものと同じ手提げ紙袋をCから受け取った。中にはポシェットとさらしに巻いたものが入っていたが、ポシェットの中には、前に見た緑の柄のナイフとスプレーのほか、オレンジ色の箱とけん銃の弾が五、六個入ったビニール袋が入っていた。さらしの中には白木の繰り小刀と赤い柄のナイフのほかに、もう一本白木の刃物が増えていた。受け取った紙袋は戊山の洋間の押し入れに隠したが、夜にCから借りたセドリックのトランク内のスペアタイヤのホイルの空洞部分に隠し直した。オレンジ色の箱の中にはけん銃の弾が四、五〇個びっしり入っていた。

六月と七月に続けて戊山に警察の捜索が入ったので、トランクに隠しておいたままでは危ないと考え、七月初旬ころの土曜か日曜に、親しく交際していたU子に戊山に来てもらい、Cから預かったものをU子の家の天井裏に隠しておくように頼んだ。その後度々電話で保管状況を確認していたが、あるとき押し入れに隠してあると漏らしたので、驚いて、預けてある刃物類は伊丹襲撃に使われたやばいものであると説明した。

被告人ら逮捕の前日の一二月二日、Cから、実行犯の一人が乙山組組員に犯行を打ち明けたことから被告人ら五人に逮捕状が出たとの新聞記事を探すよう頼まれた。記事をすぐ探し出し電話したところ、Aが出て、Cは事情を聴かれていて出られないというので、Aに記事の一部を読み上げた。

被告人らが逮捕された後、U子に預けた刃物類が気になり、早急に処分しなければいけないと考え、『道具類は埋めたりしないで形の残らないようにしてくれ。豆(弾)は海でも川でもいいから豆まきしてくれ。』と指示した。とにかく早急に処分してもらわなければならなかったので、伊丹襲撃に使われたものだからと念を押した。数日後、U子からナイフはごみと一緒に捨てたし、豆は豆まきしたと聞いた。U子がナイフやスプレーを処分していなかったことを後に知ったが、キャンプに行くのならステンレスのナイフをやるとか、スプレーを護身用に持って行ったほうがいいと言ったのをU子が勘違いしたためだと思う。

被告人らの勾留満了日の一二月二四日には富士宮市内の乙山組本部事務所に五、六〇人集まり、親分はAらが自白したことを大変憤慨していた。」

(二) G証言の信用性の検討

G証言は、被告人Cから伊丹監督襲撃の計画を打ち明けられた経緯、その内容、湯河原へ被告人Eと行った経過、同所における他の被告人らの様子、さらにCから道路地図、登記簿謄本や刃物類の入った手提げ紙袋を預かった経緯、その後これらの刃物類をCに返し、犯行後実包多数と共に再びその保管をCから頼まれ、これをU子に隠匿、処分させた経緯等を事細かく述べており、弁護人の多方面からの詳細な反対尋問に対して少しも動揺していない。被告人CはGと五分の兄弟として親しく付き合っている仲であり、CがGに犯行を打ち明けたり、凶器の保管を頼んだりしたとしても不自然ではなく、その他の事柄についても格別不合理、不自然な点はない。また、G証言は、次に指摘するように、客観的な事実によって裏付けられており、U子証言とも符合している。

(1) 客観的な事実による裏付け

〈1〉 ステンレス製折り畳みナイフ(平成五年押第二六三号の12)が東京都中野区のG宅から押収され、緑の柄の折り畳みナイフ(同押号の9)、ポーチ(同押号の10)、護身用スプレー(同押号の11)が千葉県木更津市のU子宅から押収されていること

〈2〉 湯河原丙田ボウル駐車場及びその付近やBMW(沼津《略》)の車両等の状況(検甲73・74)

〈3〉 Cの乗っていたセドリック(多摩《略》)のトランク内のスペアタイヤホイル内側の空間部分には、長さ三四・五センチメートル、厚さ一一センチメートル大の物が収納可能であること(検甲76)

〈4〉 一二月二日付け産経新聞朝刊一面には、「今年六月、犯行グループの一人が牛込署に恐喝容疑で逮捕された乙山組員に犯行を打ち明けていたことなどから、乙山組幹部らが襲撃を指示していたことを突き止めた。」旨の記事が掲載されていること(検甲77)

〈5〉 一二月二四日、甲原グランドホテルに乙山組内丙原組組長V、同戊野組組長Wが宿泊したほか、一〇数名の乙山組関係者が宿泊したとうかがわれること(検甲94・95)

(2) U子の証言

右U子は、以前からGと親しい関係にあり、Gが平成四年三月に出所してからも夫や子供がある身でGと交際を続けていたものであるが、当裁判所の期日外尋問において、次のとおり証言している。

「ミンボーの女の封切り(平成四年五月一六日)の何日か前に、Gが、湯河原に夕方ころから出かけて行って夜中に帰ってきたと話していた。伊丹を脅かしてやるとか、襲うとか思って行ったと言っていた。封切りの日にGと映画を見たが、Gは、『あんなやくざをばかにするような映画を作って、うちの組の上の者が、許せない、ちょっと伊丹を脅かしてやれということを言っている。』と言っていた。事件の翌日Gと会ったときには、『うちの組でやったことだけれども、俺は関係ないから心配しなくていい。』と言っていた。

七月上旬ころの土曜日、Gから、けん銃の弾と刃物とスプレーとポーチを預かった。Cが警察に追われているので預かったが、戊山に警察の捜索が入るようになったので、持っていて欲しいということだった。自宅の天井裏に隠すように言われたが、押し入れの天袋に隠した。その後何回も聞かれたが、怒られるので天井裏に隠したと言っていた。何度も確認されて生返事をすると、『伊丹事件の関係のものなんだからしっかりしまっておいてくれなければ困るじゃないか。』と言われて驚いた。一二月一〇日ころ、『上の人たちがちゃんとあるかどうか確認したいから持って来いって言われている。』という話をしてきたが、後日自分の判断で処分するように言われ、伊丹事件のものなんだからちゃんと処分するよう念を押された。『豆のほうもちゃんと豆まきしろよ。』と、けん銃の弾も海か川かに捨てるように指示された。処分する前に、預かったものの中身を確認したところ、白木の短刀二本、赤黒い柄のナイフ、緑色のナイフ、ガススプレー二本、けん銃の弾一箱があった。赤黒い柄のナイフは刃の峰の部分にぎざぎざのある見るからにグロテスクな折り畳み式のもので、緑の柄のナイフはごく普通の折り畳み式のものだった。ポーチと小さい方のガススプレーと緑の柄のナイフは、以前、Gから、キャンプに行くならいいナイフがあるからあげるよとか、夜真っ暗で危ないから護身用スプレーを持っていた方がいいと言われていたので、もらっておくことにした。ポーチは事件に関係ないと思ったので、スプレーとナイフを入れておくのにとっておいた。この三点以外のものはごみと混ぜてごみステーションに捨てた。けん銃の弾は自宅近くの用水路にばらまいた。翌日『例のものはちゃんとごみとして出して処分してしまった。豆は豆まきしました。』と電話で報告した。ポーチと緑の柄のナイフと小さいスプレーを手元に残したことは怒られるので言わなかった。けん銃の弾を捨てた用水路に警察を案内したところ、三二個の弾が発見された。ポーチ等は警察に任意提出した。」

なお、U子の証言中、実包を投棄したと述べる千葉県君津市の上湯江小堰放水口から実包様の物三二個が発見されている(検甲75)。

以上のとおり、Gの証言は、内容の詳細さ、具体性、明確性、自然性、客観的事実との合致、U子証言との符合等に加え、かつての仲間で暴力団構成員である被告人らの面前において、あえてこうした不利益なことを述べていることを考えると、その信用性は極めて高いというべきである。

これに対し、弁護人は、被告人Cが湯河原に行ったのは五月六日で一二日ではないし、六日に行った際には乙山組内甲山会若頭のXと二人であったと主張し、Gらは、自分達の覚せい剤取締法違反事件等について不問にしてもらう約束で警察に協力して証言したもので、Gが被告人Cからナイフを預かった点やU子が伊丹事件に使われたと聞かされながらナイフを一本処分しないで持っていた点などは不自然であるという。

しかし、被告人Cが伊丹プロダクション(伊丹十三事務所)の商業登記簿謄本から湯河原の住所を突き止めたのは五月六日であり、その日に早くもナイフを用意して湯河原に赴いたというのは時期的に不自然である。湯河原に行ったのが五月六日であることを裏付ける証拠は、組員のXの証言だけであるが、同証言はG証言と対比し信用し難い。また、覚せい剤使用の罪等別件の罪を免れるために警察に協力したというのは根拠のない主張で採り得ない(なお、Gの尿からは覚せい剤は検出されていない(検甲100)。)。Gらの証言は、右に指摘する点を含め不自然な点はなく、信用するに足りる。

三 H

(一) H証言の要旨

右Hは、戊山で平成四年一月から六月まで電話番、雑用係として働いていたものであるが、次のとおり証言している。

「事件の一週間から一〇日前ころから、被告人ら五人が戊山に頻繁に出入りするようになった。被告人Aは、被告人Cと一緒にBMWで出かけて行き、被告人D、同B、同Eの三人はYから借りた丁野名義のローレルで出かけて行った。Dら三人が出かける時間帯は不規則で、戊山に戻ってくると、Aに、今日は伊丹は居なかったみたいだ等と報告しているようだった。D、E、Bは四日くらい戊山に寝泊まりしていたが、事件の二、三日くらい前から姿が見えなくなった。

五月中旬ころ、Cが戊山の和室にビデオデッキを持ち込み、B、Eと「マルサの女」「お葬式」のビデオを見ていた。はっきりしないがDも居たように思う。車が出てくるところで一時停止をして車のナンバー等を控えたり、早送りして最後の字幕が出てくる部分で製作プロダクションをメモしていた。ビデオに出てくる外車が伊丹の車だとか、ナンバーが3か8みたいな感じだとか、製作プロダクションの名前を読んでいるのが聞こえた。伊丹の車のナンバーやプロダクションの名前等を調査している理由について、Eと二人の時尋ねてみると、『伊丹がミンボーの女で生意気なんだ。その件の仕事で来ているんだ。』と話してくれた。その後間もなく丙原組組長のVに尋ねてみたところ、『Aたちは伊丹監督をやるんだよ。』と言っていた。

事件の日の夜、東京都大田区大森のスナック「乙川」に居て、テレビのニュースで事件を知った。店に居たVは、ニュースが流れた時、『Aたちはすごいな。』と言っていた。六月初めころ、Eがまた戊山に出入りするようになったので、『今回は大変でしたね。』と尋ねると、『いやへまったな。顔を見られたかもしれない。』と言っていた。Yは、事件の後Aからローレルの車載電話とタイヤを交換するように言われたと話していた。」

(二) H証言の信用性の検討

H証言の内容も具体的で、被告人らが「マルサの女」等のビデオを見ている様子などは臨場感がある。そして、五月一二日に戊田会組員Jが「マルサの女」「お葬式」のビデオを借りていることや、被告人CがJにビデオを借りてくるように指示していた旨のFの捜査段階における供述、五月一四、一五日ころ戊山の和室にビデオデッキが持ち込まれた旨のG証言、被告人Aら二人はBMWで、同Eら三人はローレルで行動していた旨のM証言とも合致しており、H証言の真実性にも疑問がない。

これに対し、弁護人は、Hは、平成四年一二月一四日に恐喝未遂事件で逮捕勾留された際警察から執行猶予にしてやると言われ、伊丹事件について虚偽の供述をして調書に署名し、その後執行猶予の判決を受けて釈放されてからも警察の保護監視下に置かれ、平成五年一一月二七日には再び覚せい剤取締法違反の罪で逮捕され、執行猶予にしてもらう約束で公判廷で虚偽の証言をしたことは、戊山に出入りしていたZの証言で明らかであり、また、丙原組組長Vの証言によれば、同人は、五月二二日に右「乙川」でHと会っておらず、同所のテレビはカラオケ専用でニュースは受信できないというのであるから、H証言は事実に反し、信用できないと主張する。

Hが、被告人らが勾留中の平成四年一二月一四日恐喝事件で逮捕、勾留、起訴され、その間伊丹事件について取調べを受けたこと、翌五年二月二六日懲役二年執行猶予四年の判決を得て釈放後約一か月間警察の厳重な保護下に置かれ、その後同年一一月二七日覚せい剤所持事件で再び逮捕されたことは、H証言により認められるが、Hが右の事件について執行猶予にしてもらう約束で虚偽の証言をしたものでないことは、同人が明言しているところであり、これと対比しZ証言は信用できない。また、「乙川」の検証調書や家主A’子の警察官調書等(検甲84~87)によれば「乙川」のテレビはカラオケ映像をテレビ映像に切り替えることができ、H証言は事実に反しない。H証言によれば、同人は、恐喝事件の判決で釈放後、右Vから、「調書は読んだ。なぜしゃべった。裁判には出るな。出るんであれば雑誌とか新聞等で見たり聞いたりしたものだと。おまえには女房も子供もいるんだ。」などと言われたにもかかわらず、「裁判が長引いており、被告人Aをはじめ皆いい人なので、自分の罪は素直に認めて早く刑に服し、一日も早く社会復帰してまじめにやってもらいたい」との気持ちから、あえて証言したというのであって、H証言の真実性が如実にうかがえる。

四 I子

(一) I子証言の要旨

不動産の仲介等をしていた右I子は、平成三年一一月ころ不動産を巡るトラブルを解決するため、乙山組内甲田組組長に紹介されて被告人Dと知り合い、Dの尽力により問題が解決したことから、Dを信頼し、以後仕事上Dと付き合いを続け、親しく口をきく間柄にあったものであるが、本件犯行前後におけるDの言動について、次のとおり証言している。

「Dから、静岡県沼津市の干物製造販売業者の所有する別荘の買い手を探すよう頼まれ、平成四年四月下旬から、四、五回、右B’子方別荘の八畳間でC’、D’、E’、D、F’といった顔ぶれで会った。五月一〇日ころ別荘でDと会った時、組の用事で東京に偵察に行くので予定が立たないと言っていた。一五日ころ会った時、昨晩東京に行き夜中車の中で見張っていたというので、理由を尋ねたところ、やくざ者をばかにした映画を作った監督に脅しをかけると言っていた。二三日午前九時に沼津三島インター近くのファミリーレストランで待ち合わせることにし、二〇日ころ確認の電話をかけようとしたが、携帯電話は通じず、自宅にかけると、奥さんがDは東京に仕事に行っていると言っていた。事件のあった二二日午後一〇時ころ、再びDの携帯電話にかけてみたが、やはり通じなかった。二三日午前九時になってもDは待ち合わせ場所に来なかったので、先に別荘に行きDを待っていると、テレビの昼のニュースで血だらけの伊丹監督がストレッチャーに乗せられて病院へ搬送されるところが報道されていた。Dが犯人ではないかと思い心配していると、午後三時半ころDがF’と二人で別荘に来た。Dは『組の仕事で東京に行ってきて、風呂に入って着替えをしてきたので遅くなった。』と話し、携帯電話については電源を切っていたということだった。テレビで伊丹事件のニュースをやっていて、Dは、それを見ながら『夕べわしがやった。随分背の高い人だから飛びついたら思ったより刃が入った。』等と話し、紙包みを五センチくらい開き、赤いナイフの柄のようなものを見せた。警察に捕まるから裏庭に埋めてくるよう言うと、F’が包みを持って表に出ていった。八月か九月ころ自首するように勧めたが、組の仕事であり自分の一存ではいかないと悩んでいた。」

(二) I子証言の信用性の検討

I子証言も、被告人Dとの交際の経緯、別荘でのDとのやりとり等証言全体に、具体性、迫真性がある。さらに、B’子の覚書帖(平成五年押第二六三号の39)には「5/1 I子さん、Dが見えた(C’さん、D’さん)Dさんはこわそうに見えたが話方はとても静かな人だった」「5/10 Dさん、I子さん、C’他に二、三人」「5/11 I子さん達が帰ってから会社応接間に、E’、D’、C’、夜中の一時頃迄いた」「5/15 D’、C’、I子、D’別れにまたおばあさんが大さわぎをしてこまる」「5/23 D’さんから電話がありDさんが来る。いい話があるから必ずいるようにとの事だった。I子さん、C’、D’、Dさん」「5/26 I子、C’、D’、E’。社長はさんざんE’にどなられた」「5/30 I子、D、C’、D’、来社」との記載があり、I子証言のとおりDが別荘に行っていることを裏付けている。I子は、仕事上の付き合いを通じ、Dの誠実さ、人柄を高く評価し、同人とは良好な関係にあったもので、Dに対し事実に反する証言をしなければならない理由がないばかりか、多数の暴力団員が傍聴する中、組員の被告人らの面前であえて不利益な証言をしたI子証言の信用性は高いというべきである。

これに対し、弁護人は、I子は名うての詐欺師で、詐欺事件について不問にしてもらう取引をして虚偽の供述をしたに違いなく、午後三時ころの時間帯に伊丹事件に関する報道がなされていないことは、弁護人が静岡放送等五社に対し伊丹事件についての報道の有無を照会した回答書(弁1~15)から明らかであるし、別荘には行ったことがないとのDの舎弟であるF’の証言にも反し、到底信用できないと主張する。

しかし、警察とI子との間で取引がされたとの主張は根拠がなく、F’証言も右の覚書帖の記載に照らし信用できない。また、B’子の警察官調書、捜査報告書、捜査関係事項照会回答書(検甲121~127)によれば、別荘のテレビは当時共同アンテナにより東京六社の放送を受信でき、右局においては午前一一時三〇分から一二時ころまでの昼のニュースのほかに午後五時から六時三〇分ころにかけての夕方のニュースでも伊丹事件の報道がされていることが認められ(弁護人は静岡県下の放送局に対し照会したのみで、右のローカル局に全国ネットのニュース等の電波を送信するキー局に対しては照会していない。)、I子証言は、テレビを見た時刻は正確でないかもしれないが、大筋において信用してよいと判断される。

第四  小括

以上見てきた自白を除く関係証拠を総合すれば、本件犯行の経緯及び概要として、次の事実が認められる。

乙山組幹部の被告人Aは、伊丹監督が映画「ミンボーの女」を製作し、テレビ等において暴力団を社会から排除すべきことを訴えていたことに対し、暴力団を愚弄するものとして憤激し、伊丹監督を懲らしめるため、同人を襲撃することを計画し、乙山組内戊田会組員の被告人Cに伊丹監督の会社の名前や住所を調査するよう指示した。これを受けた被告人Cは、平成四年四月中旬ころから新宿のビジネスホテルに泊まり込んで調査を始め、同会組員のFにも伊丹監督の製作した映画のビデオのパッケージを調べるよう頼み、五月五日夜、同人からの連絡で伊丹プロダクションの名前が判明すると、六日及び八日の二回にわたり、右伊丹プロダクション(伊丹十三事務所)の商業登記簿謄本の交付を受けてその調査結果を被告人Aに報告し、被告人Aも伊丹プロダクションの事務所を下見した。五月一二日ころ、被告人A、同C、同D、同Bの四人は、右登記簿謄本の代表者住所欄に記載されている神奈川県足柄下郡湯河原町所在の伊丹監督の別宅を見に行き、遅れて被告人Eも乙山組組員Gを連れて湯河原に着いた。その帰り、被告人Cは、右Gに用意していた赤い柄のナイフ等の刃物の保管と登記簿等謄本等の処分を指示し、預けた右刃物については、一五日に東京都港区《番地略》所在の乙山組内丙原組関連会社戊山の事務所でGから受け取った。また、被告人Cは、五月一二日戊田会組員のJに指示して伊丹製作にかかるビデオテープ二本を借りてこさせ、戊山の事務所にビデオデッキを持ち込んで、被告人B、同Eらとともに、画像を一時停止して伊丹監督のものと思われる外車のナンバーを控えたりしながらこれを見ていたほか、五月中旬ころ、犯行に使用する車両や車検切れの車のナンバーの入手を図っていた。被告人D、同B、同Eの三人は、被告人Aの指示で五月一四、五日ころから上京して、戊山の事務所や乙山組関連会社丙山の事務所(戊原)を拠点にして伊丹監督の行動を見張り、被告人Aに報告していた。このころ、乙山組関係者が、五月七日に伊丹が使用していたベントレーの登録事項等証明書等の交付を受け、次いで一五日に伊丹の妻が使用していたポルシェの登録事項等証明書等の交付を受けている。五月二二日の事件当日は、午後五時半ころ、被告人D、同B、同Eの三人が車で戊原から出かけている。被告人Dは、翌二三日、仕事の件で待ち合わせをしていたI子に対し、自分が伊丹を襲撃した実行犯である旨打ち明け、同女に犯行に用いたという赤い柄のナイフを見せ、被告人Eも、丙山の社員Hに犯行への関与をほのめかす供述をしている。また被告人Cも、前記GやFに犯行を打ち明け、五月二六日、Gに犯行に用意したという刃物等を預けたほか、逮捕前日の一二月二日伊丹襲撃事件の犯人に逮捕状が出た旨の新聞記事が掲載されると、その内容をGに尋ねている。

以上によれば、被告人らは、被告人Aを首謀者として、事件直前まで周到に伊丹監督を襲撃する準備をし、その機会をうかがっていたことを優に認めることができ、これに事件の背景や犯行の態様、目撃状況、逃走車両に別の車のナンバープレートが付けられていたこと、事件後被告人ら数名が周辺関係者に犯行を認める供述をしていることなどの事情を総合すると、本件犯行は被告人らが共謀して行ったものであることをおおむね認定することができる。

第四章  被告人らの弁解

弁護人は、被告人Cは、単独で伊丹監督を襲撃することを計画し、同監督の会社の所在地等を調査したが、計画を打ち明けた被告人Aに説得されて途中で実行を断念したものであって、被告人らはいずれも本件犯行に関与しておらず、それぞれ犯行時にアリバイがあると主張し、被告人らも、公判廷において、計画を断念するに至った経緯や犯行当日の自らの行動について詳しく供述しているので、以下において、その供述内容を概観した上、検討を加えることとする。

第一  襲撃計画の中止について

一 被告人C及び同Aの各供述の要旨

被告人C及び同Aは、伊丹監督の襲撃計画を途中で断念するに至った経緯について、公判廷において、概略次のとおり供述する。

「被告人Cは、所属する戊田会の会長Tが破門になるという噂を聞き、何か大きな仕事をして同人を復帰させようと考え、そのころ「ミンボーの女」を製作しやくざをばかにする発言をしていた伊丹監督を襲撃して功績を挙げることを思い付いた。平成四年四月一二日ころから、当時交際していたホステスU’ことU’’の勤め先に近い新宿歌舞伎町の甲川というビジネスホテルに泊まり込んでいたが、四月二〇日ころ、戊田会組員のFを呼び出し、伊丹監督の映画のビデオを見て会社の住所等を調べるよう頼んだ。そのとき被告人Aから指示されたというようなことは言っていないし、四〇万円もの大金は持っていなかった。五月初めころFは伊丹プロダクションの名前を連絡してきたが、住所が分からなかったので、自分で新宿の書店に行き芸能関係の本を見て調べた。五月六日、被告人EにAのBMWを運転させて秀和狸穴レジデンスに行き伊丹プロダクションが入居していることを確かめた後、代表者欄の住所を調べようと会社の登記簿謄本を取ったところ、伊丹監督の住所が神奈川県の湯河原町にあることが分かったので、そこに伊丹監督が住んでいるかどうかを確認するため、午後二時ころ、甲山会組員のXに道案内を頼み、AのBMWを借りて湯河原に下見に行った。同所に伊丹監督は居たが、一人で襲撃して後で上から怒られても困るので、Aが組本部のある富士宮市に帰って来るのを待ち、Aに相談してから実行することにした。BMWを東京に持って帰ってもらうためGを湯河原まで呼び、住宅地図一冊、電話帳一冊、東京を出る前に買った五本のナイフのうち二本を紙袋に入れて渡し、処分するよう頼んだ。ナイフは五本も必要ないのでうち二本を捨ててもらおうと思って渡したのだが、Gが欲しいというのでやることにした。残りの三本のナイフは上着のポケットに入れていた。後にU子が警察に提出した緑の柄のナイフとGの自宅から押収されたステンレスのナイフがこの時Gにやったナイフである。その日はAの帰りを待つため、乙田会会長G’に頼んでAの名前で甲原グランドホテルを予約してもらったが、Aが東京に行ってしまったので会えなかった。翌七日上京し、Aに相談に乗って欲しいと電話で告げたところ、予定が折り合わず、一一日に会うことになった。Gにうっかり登記簿謄本も一緒に渡してしまったことから、八日に登記簿謄本を取り直しておいた。一一日、戊山でAに会い、登記簿謄本やメモを見せて襲撃計画について相談した。Aは、上の者に相談してみると言ってそれらを預かった上、富士宮市の丙川組事務所に行きH’組長に右計画を話したところ、強く反対され、そのようなことは止めさせるよう指示されたため、翌一二日午前中Cを戊山に呼び出してH’の意向を伝え、Cも納得して計画を断念した。Aは、Cから預かっていた登記簿謄本やメモをその場で破るか丸めるかして屑篭に捨てた。その後は襲撃の準備等は一切していない。」

二 右供述の信用性の検討

(一) もともと、被告人Cが単独で伊丹監督を襲撃しようと自ら考えたということ自体、同被告人の乙山組内における立場、影響力、その器量からして、現実性に乏しく信用し難いことである上、TことI’の証言によれば、同人が乙山組から破門になったのは、乙山組最高顧問のJ’から数千万の借金をしこれが返済できなくなったことが原因であり、配下の組員が伊丹監督を襲撃したとしてもTが組に復帰できる可能性はないというのであるから、Cが伊丹監督を襲撃して功績を挙げTを復帰させようという発想も合理性に欠ける。

さらに、湯河原町の伊丹監督の別宅の住所を突き止めたその日に、一人で襲撃するのにナイフを五本も用意して湯河原まで赴き、結局Aに相談してから襲撃することにして、用意したナイフのうち二本をGに処分させようとし、C一人が泊まるのにわざわざGに頼んでAの名前でホテルを予約してもらうというのも経過として甚だ不自然である。組員のXは、五月六日にCに頼まれ、湯河原町にC一人を迎え、同人を案内して伊丹監督の別宅近くに行った旨、同G’は、同日Cに頼まれAの名前でホテルを予約した旨それぞれCの供述を裏付ける証言をするが、右に指摘した点やG証言に照らし信用し難い(なお、甲原グランドホテルフロント係の回答書(弁16~18)は、当日Cがホテルに宿泊したことを裏付けるものではない。)。

また、被告人Aは、Cから預かったメモは捨てたと供述するが、右メモがその翌日クリーニング店「クリーニング丁川」に出したAの背広の内ポケットに入っていたことは動かし難い事実である上、そのメモには、Aの筆跡で「池内岳彦」と書き込みがあることや(なお、「日本映画俳優全集」等の書籍には伊丹十三の欄に「本名池内岳彦・戸籍名義弘」と掲載されている(検甲130)。)、Aが五月中旬伊丹プロダクションの入居する秀和狸穴レジデンスを下見していることは、A自ら進んで伊丹監督の本名や居住する場所を知ろうとしていたことをうかがわせるもので、Aが公判廷で言うように、Cから襲撃計画の相談を打ち明けられ、上層部の意向に従ってCにその計画を断念させたという受け身の態度とは矛盾している。

(二) 被告人Cが同Aの意見を受け入れ伊丹監督襲撃計画を断念したという五月一二日以降においても、被告人らがこの計画を準備していたことを裏付ける多くの事実があることは前記第三章第二及び第三で判示したとおりである。すなわち、(1)五月一二日午後三時ころ、被告人Cが、戊田会組員のJに電話で指示し、「マルサの女」と「お葬式」のビデオを借りてこさせ、その後戊山にビデオデッキを持ち込み、被告人B、同Eと共に、伊丹監督のものと思われる外車のナンバーを控えたりしながらこれを見ていたこと(第三章第二の2・第三の一・第三の三)、(2)同日夜、被告人A、同C、同B、同D、同Eが、湯河原町所在の伊丹監督の別宅を見に行っていること(第三章第三の二)、(3)五月一五日、富士宮市内の自動車会社を通じて、伊丹の妻が使用しているポルシェの登録事項等証明書等の交付がされていること(第三章第二の5)、(4)五月一五日ころ、被告人Cが、戊田会組員のFに車検切れの車のナンバーの調達を頼んだこと(第三章第三の一)、(5)五月一〇日ころから事件発生の前ころまで、被告人五名が戊原や戊山に頻繁に出入りしていたこと(第三章第二の6)等の事実を指摘することができる。

(三) 以上のとおり、被告人C及び同Aの公判廷における供述は、伊丹監督襲撃の動機、これを断念した経緯、襲撃準備の経過等に不自然、不合理な点が多々あるだけでなく、証拠により認められる客観的な事実とも齟齬しており、捜査段階においてもそのような弁解が一切されていないことを併せ考えると、信用し難いといわなければならない。

弁護人及び被告人らは、右(1)の事実につき、被告人A、同C、同B、同Eが五月一八日か一九日に戊山で一緒にビデオを見たことはあるが、伊丹のビデオを見ていたのではなく、Bに頼まれてAが自宅から持ってきた裏ビデオを見ていたものであると主張、供述する。

しかし、右の主張を裏付ける客観的な証拠はなく、被告人らが見ていたのは「マルサの女」と「お葬式」のビデオであった旨のH証言、これを裏付ける被告人Cが戊田会組員のJに右ビデオを借りてくるよう指示していた旨のFの捜査段階における供述に照らし信用し難い。

第二  アリバイについて

一 被告人Aのアリバイ

(一) 被告人Aの供述の要旨

被告人Aは、犯行当日東京には居なかったと主張し、五月二〇日から二三日までの行動経過について、公判廷で、概略次のとおり供述している。

「五月二二日に姫路で行われる甲野組丙野組組長の盃儀式に親分付として同行するため、二〇日に富士宮市の自宅に帰ったが、V組長から預かっていた戊山の金庫の鍵をうっかり持ち帰ってしまったことに気が付き、二一日午前八時ころ自宅をBMWで出て戊山に行きV組長に鍵を渡した。途中スピードを出し過ぎ中央道富士吉田線上りの道路で写真を撮られた。午後一時半ころ東京駅から新幹線ひかり号に乗り、静岡駅で乗車したJ’親分以下八名(若頭のK’組長、舎弟頭のL’組長、H’組長、M’組長、N’組長、O’組長、親分付一名、女性一名)と合流し、午後五時過ぎ姫路駅に着き、丙野組の若い衆が手配してくれた姫路駅前の「ホテルサンガーデン丁山」にチェックインし、親分のデラックスルームの隣室に宿泊した。翌二二日午前一〇時から丙野組事務所一階の大広間で盃儀式が行われたが、自分ら親分付は儀式には参列せず、事務所の和室で待機していた。儀式は正午ころ終わり、親分らは料亭に行ったが、腹の調子が悪かったので一人で事務所で待機していた。午後二時過ぎ親分らと姫路を発ったが、帰りの新幹線の中で急遽午後七時からの甲野組戊川組若頭P’の通夜に参列することになり、静岡県の富士川町に行った。午後七時半ころ通夜が終わり、富士宮市の組本部に戻り親分に挨拶をしてから、午後九時ころ丙川組の事務所に寄った。被告人Bから産業廃棄物の埋立地を探して欲しいと頼まれていて、知り合いのQ’の山林を借りる話をつけてやり、その賃料としてBから五〇万円を預かる約束をしていたためである。少し遅れて来たBから五〇万円を現金で受け取り、その後しばらくBらがマージャンをしているのを見ていたが、先に帰宅した。翌二三日Q’にその五〇万円を渡し、P’の実家近くの寺で行われた葬儀に参列した。土地の件は五月末ころ解約になり、Q’から同人振出の五〇万の小切手を受け取り、Bに渡した。」

(二) 被告人Aの供述の信用性の検討

被告人Aが犯行当日姫路で行われた丙野組組長の盃儀式に前日から親分付として同行したとの点について、Aは、第二七回公判において、親分付としてこの時共に同行したのはR’であり、ホテルサンガーデン丁山の勘定書やルームバランスシート(検甲82)の宿泊者欄に「R様2名」と記載されている理由について、「当初RとR’が姫路に同行する予定であったが、直前に自分がRと交替したので、ホテルの部屋を手配してくれた丙野組の若い衆がこれを知らずに宿泊カードにRの名前を書いたのだと思う。」と明確に説明し、丙野組若頭代行として乙山組親分らを接待したS’も、第一六回公判において、姫路に来たのはAとR’でありRは来ていない旨証言していたところ、第三二回公判において、検察官から証拠として提出された盃儀式やその後の割烹甲本での宴席の様子を撮影したビデオテープ等(平成五年押第二六三号の20、検甲79~81・90)により、盃儀式の後の宴席にRが出席していて、R’は出席していないことが明白になるや、Aは、これまでの供述を卒然と変え、「R’と共に同行したと思っていたが、R’とRを取り違えていたかもしれない。」などと供述するに至っている。しかし、同室に宿泊し二日間行動を共にしていた者を勘違いするとは考え難いし、S’も同様の記憶違いをしていたというのはまことに不可思議である。

また、Aが、五月二〇日に戊山の金庫の鍵を富士宮市の自宅に持ち帰ってしまったため、これを返すため翌二一日朝上京したとの点についても、二一日午前九時五〇分ころ、山梨県南都留郡の中央道富士吉田線上り車線において、Aがスピード違反を写真で認知されているという動かし難い事実(検甲72・88)との関係を一応矛盾なく説明するものではあるが、その日親分付として姫路に同行しなければならない大事な予定があるのに、富士宮市を離れるというのは不自然である。G証言によれば、そもそも当時戊山に勤めていたわけではないAが戊山の金庫の鍵を預かるということはあり得ないし、金庫の鍵はV組長のほかW組長も保管していたというのであるから、Aがわざわざ上京する必要性があったか疑問である。弁護人は、乙山組本部長補佐の地位にあるAは信頼されていたから、戊山の鍵を所持していても何ら不自然ではないなどというが、これを支える証拠はVの証言だけであり、第三章第三の三で判示したように、Hが証言するにあたり同人に事実を述べないよう働きかけたVの態度に照らすと、同人のこの点に関する証言もまた信用し難い。

さらに、二二日夜丙川組事務所でBから五〇万円を受け取り、翌日Q’に渡したとの点についても、Q’は、Aから産業廃棄物の捨て場の借用方を依頼されたり、そのことでAから五〇万円を受け取ったことはなく、小切手を振り出したのはAへの借金の利息の支払いのためであると明確に証言しており、この点についてのAの供述も信用し難い。

こうした事情に加え、Aは捜査段階において公判廷で述べるような自らの行動経過について何ら述べていないことを考えると、Aのアリバイに関する供述は、はなはだ信用性に乏しい。

二 被告人Cのアリバイ

(一) 被告人Cの供述の要旨

被告人Cは、犯行当日東京には居なかったと主張し、五月二一日から二三日の行動経過について、公判廷で、概略次のとおり供述している。

「五月二一日は、被告人Aが姫路に行き仕事がなかったので、愛人のU’と一緒にぶらぶらし、夜は甲川が満室だったため、近くのラブホテルに泊まった。二二日昼近くに同ホテルを出て原宿に行き買い物をしたりした後、夕方横浜市の関内駅近くの同女の友人宅を訪れ、夜は伊勢崎町の韓国クラブで遊んで横浜市内のラブホテルに泊まった。U’の友人の名前、韓国クラブの名前、ラブホテルの名前は分からない。二三日は東京に戻った。」

(二) 被告人Cの供述の信用性の検討

戊原近くのクリーニング店「クリーニング丁川」の店員Lは、五月二二日午前一〇時ころ、被告人Cが店に白いズボン一本とワイシャツ二枚を出しに来て、そのときは女性と一緒ではなく、被告人Aと一緒に居たことのある男を二、三人連れていた旨証言しており、右証言は「C’’(C)」様宛の預り書控(平成五年押第二六三号の8)によっても裏付けられており、十分信用できる。これに対し、Cの供述は、韓国クラブやラブホテルの所在、名称が分からないと言うなどあいまいで、信用できない。

三 被告人D、同B、同Eのアリバイ

(一) 被告人D、同B、同Eの各供述の要旨

右被告人三名は、それぞれ犯行当日の夕方東京を離れ富士宮市又は厚木市の自宅に戻ったと主張し、その前後の行動経過について、公判廷で、概略次のとおり供述している。

「五月二〇日から二二日まで、被告人D、同B、同Eの三名は戊原で徹夜マージャンをし、その途中、Dは乙沢屋の「T’」というマッサージ師を、B、Eは丙林マッサージの「V’」というマッサージ嬢をそれぞれ呼んだ。二一日Eが近くの工事の騒音のことで家主に文句を付けたところ、二二日午前一一時ころ乙山組の関連会社丁野の会長W’から電話で叱られ、三人でW’に謝りに行き、その後戊原に戻ってEが家主に謝りに行き、部屋の掃除をしてから、午後五時半ころ三人で戊原を出た。Dは、Eの運転するローレルで新宿駅西口まで送ってもらい、小田急線で厚木に戻り、駅から帰宅する途中舎弟のF’に会って戊川組のP’の葬儀の話を聞き、午後七時ころ帰宅した。午後八時ころX’が訪ねて来て、Dの妻にX’の経営するスナックで働いて欲しいなどの話があり一時間ほどで帰った。二三日は外出せず、家でテレビを見ながらごろごろして過ごし、オークスの前日だったので競馬の呑み行為を午後五時までしていた。F’も競馬が好きなので午前一〇時ころから来ていた。BとEは、新宿でDを降ろした後、車で富士宮市に向かい、午後八時ころ着いた。Bは、内妻のY’子の経営するスナックに寄り、あらかじめ同女に用意するよう電話で指示しておいた五〇万円を同女から受け取り、Eに丙川組事務所まで送ってもらってEと別れ、事務所で待っていた被告人Aに、産業廃棄物を捨てる土地の賃料として五〇万円を渡し、その後は丙川組長らと一二時前ころまでマージャンをしていた。土地の件は一週間もしないうちにキャンセルされ、Aから五〇万円を小切手で返してもらった。五〇万の話はTが手形うんぬんと証言しているのを聞いて思い出した。Eは、Bを丙川組事務所まで送った後、自宅に帰ったが、組に連絡しなかったことで乙野会会長が怒っているのではないかと心配になり、電話をかけて謝ったところ、それほど怒られず、翌日のP’の葬儀に必ず出るよう指示された。結局寝坊して葬儀に行かず、夕方五時ころ会長に電話をしたところ、呼びつけられしつこく怒られた。」

(二) 右被告人三名の各供述の信用性の検討

被告人三名が三日間徹夜マージャンをし、途中でマッサージ嬢を呼んだという点については、四月五日から七月一四日までの間の売上げ内容を記した丙林マッサージの売上帳(平成五年押第二六三号の22)によれば、五月一〇日と一一日の二日間、「V’」という源氏名のマッサージ嬢が戊原を訪れた旨の記載があるが、五月二〇日にはそのような記載はなく、丙林マッサージのマッサージ嬢が同日戊原を訪れたとは認められない。

また、Dが二二日夜厚木市の自宅に戻った後X’が訪ねて来たという点については、これに沿うX’の証言が存するが、当時X’と親しく交際していたZ’子は、「五月二二日午後七時ころ、X’の経営するナイトパブ「J谷」の従業員A’’と生命保険の契約を結ぶため同店に行った。X’が店を覗いて隣の事務所に上がっていったので、八時ころから事務所でX’と話をしていたが、人に聞かれたくない話もあったので外へ出てX’の車の中で一〇時過ぎまで話をし、その後店に戻って翌二三日午前一時過ぎまで二人で飲んで帰宅した。」旨証言し、「丁谷」のママB’’子も、「X’は、二二日午後一〇時過ぎから午前一時ころまで、Z’子と「丁谷」で飲んでいた。」旨証言している。右両名の証言は、Z’子の手帳や日記帳、「丁谷」の会計票、売上げ報告票、金銭出納帳等(平成五年押第二六三号の23~29、検甲96~98)の客観的証拠によって裏付けられており信用できる。この点、X’は、当日D宅へ行った記憶がよみがえったのは、普段ワイシャツや背広姿をしたことがなかったので、当日背広姿でDの妻に会った際、同女から、「今日はそんなにしゃれちゃって」と言われ、「ちょっと裁判所へ行ったので」という会話を交わしたことを思い出したためであると証言するが、他方で、当日裁判所へ行った後昼ころ自宅に戻り食事をしたりビール等を飲んだと言っており、そうであれば着替えもせず当日夜背広姿のままD宅へ行ったというのは甚だ不自然であり、Z’子証言やB’’子証言と比べればはるかに信用性に乏しい。

また、Dの証言に沿うF’の証言は、同人はB’子宅には行ったことがないと述べる点において、前記のとおりB’子の覚書帖(平成五年押第二六三号の39)の記載に照らし信用できず、同証言は全体として信用性に乏しい。

Bが内妻のY’子から五〇万円を受け取り、これをAに渡した等の点については、Y’子は、五月二二日Aに渡すための五〇万円を用意し、自分の経営する富士宮市のスナック「戊海」で午後七時半ころBに渡した旨B供述に沿う証言をするが、Aから五〇万円を受け取ったとされるQは、前述のとおり、そのころAから五〇万円を受け取ったことはないと証言していることに照らし、Y’子証言は信用できない。

以上のとおり、被告人B、同E、同Dのアリバイ供述は、客観的状況や信用性の認められる関係者の証言と齟齬しており、たやすく信用することができない。

第五章  被告人C、同A、同Dの各自白の任意性及び信用性

被告人C、同A、同Dは、いずれも平成四年一二月三日に逮捕され、当初犯行を否認していたが、同月一九日に被告人Cが、次いで、勾留満了日である同月二四日に被告人A、同Dが、それぞれ犯行を自供した。被告人Cについては、平成四年一二月一九日付け調書を始め起訴後の平成五年一月三〇日付け検察官調書まで計一六通の調書が作成されており、被告人Aについては、平成四年一二月二四日付け供述調書が四通、被告人Dについては、同日付け供述調書が三通(このほか同月四日付けの身上経歴調書がある。)作成されている。

第一  被告人Cの自白

一 供述経過、供述内容等

被告人Cは、逮捕後警視庁本部に勾留されて取調べを受けていたが、平成四年一二月一九日に至り、「共犯者の一人として本件犯行に関与した。新宿のビジネスホテルに泊まり、戊田会組員のFに頼んで伊丹のビデオを見て伊丹関係の会社名を調べてもらい、それで伊丹プロダクションという会社名が分かったので、新宿の本屋でマスコミ関係の本を見てその住所を調べ、これを「ある人」に報告した。「ある人」が誰かについては言えない。伊丹プロダクションの所在地が分かったので、登記所港出張所に二度行き、登記簿謄本を取った。」旨の自供調書(検乙22・27)が作成された。さらに、同月二〇日付け調書(検乙23・28)では、伊丹を襲撃するための活動資金として「ある人」から二、三〇万円を預かり、ホテルの部屋代等に充てたことや、戊田会組員のJに頼んで「マルサの女」と「お葬式」のビデオを借りてこさせたことを述べ、次いで同月二一日付け調書(検乙24・29)では、「ある人」から、伊丹が最近ふざけたことを言っていてけじめをとってやろうと考えているので、どこかに潜伏し、伊丹の住所を調べるよう指示されたことや、「ある人」に伊丹の関係する会社の名前や住所を書いたメモと登記簿謄本を渡したことを述べている。そして、同月二二日付け調書(検乙25・30~32)においては、犯行を指揮した「ある人」とは被告人Aであり、実行犯は被告人D、同B、同Eであるとして被告人五名による犯行であることを認め、Aからナンバープレートの調達を命じられたことや、Aと二人でBMWに乗り伊丹の会社を下見したことも併せて供述した。同月二四日付け調書や起訴後に作成された調書(検乙21・26・33~36)においては、それまで述べてきた事実経過をまとめて次のように供述している。

「平成四年四月中旬ころ、Aから『伊丹十三の野郎最近ふざけたことを言っている。ちょっとけじめをとってやろうと思っている。伊丹の自宅や関係する会社の住所を調べてくれ。』と言われ、新宿のビジネスホテルに潜伏するようになった。Aから伊丹を襲撃する準備をするための活動資金として二〇万から三〇万円を預かり、ホテル代やタクシー代等に充てた。まず、会社四季報を買ってホテルで読んだが、伊丹の関係する会社の名前や住所は載っていなかったので、Fに伊丹の映画のビデオを見て伊丹が関係する会社の名前を調べるよう頼んだ。五月初旬ころFから伊丹プロダクション等の会社名を聞いてメモし、このメモを持って新宿の本屋を回り、紀伊国屋にあったマスコミ電話帳という本で伊丹の本名や伊丹プロダクションの住所、電話番号を見つけてメモした。「マ 伊丹プロダクション ニューセンチュリープロデゥサーテレビマンユニオン」等と記載のある紙片(平成五年押第二六三号の7)はFから聞いたことを書いたメモで、Fが「マルサの女」や「あげまん」のビデオのパッケージを見て分かったと言ったので、マはマルサの女の略、アはあげまんの略の意味で書いた。「テレビマンユニオン」等と記載のある紙片と「ニューセンチュリープロディサーズ」等と記載のある紙片(同押号の5・6)は、新宿駅周辺の本屋を回って調べて書いたメモである。住所が分かったことをAに連絡すると、伊丹プロダクションの登記簿謄本を取るよう指示され、五月六日と八日に登記所港出張所に行って登記簿謄本を取った。七日ころ、メモと六日に取った謄本をAに渡した。また、戊田会の事務所に電話して組員のJに頼み「マルサの女」と「お葬式」のビデオを借りてきてもらった。一〇日過ぎころ、Aと二人でBMWに乗り伊丹の会社を下見に行った。Aからは犯行に使用する車両やそれに付けるナンバープレートの調達も指示されており、Fに頼んでみたが、調達できなかったので、Aにその旨報告した。事件後、Aから襲撃の実行犯はD、B、Eの三人であると聞いた。五月末ころFに口止めをしておこうと思って電話をし、その際格好をつけて、いかにも自分が襲撃したかのように『顔の横をちょっと切っただけだ。』等と話した。」

二 自白の任意性

(一) 弁護人は、被告人Cの全供述調書の任意性を争い、同被告人の当公判廷における供述に基づき、その理由として次のとおり主張している。

「被告人Cは、逮捕時から風邪で体調が悪かったのに、連日深夜に及ぶ取調べを受けて疲労困憊していた。平成四年一二月一九日夜の取調べにおいて、岩迫警部補から、Fの供述調書に基づいて作成した供述調書に署名指印するよう執拗に迫られたため、ボールペンで右手の甲を突き刺して署名指印を拒否しようとしたところ、岩迫警部補と多田巡査部長から壁に押し付けられて首を絞められ、顔面を数回殴打される暴行を受けた上、岩迫警部補から『このことは検察官にも弁護士にも誰にも言うな。裁判でも絶対に言うな。言ったら後ろからけん銃で撃ってやる。警察を辞めても絶対にけじめをとってやる。』等と脅迫され、本当に殺されるかもしれないとの恐怖感を抱き、やむなく供述調書に署名指印し、その後すぐ検察官が取調室に入ってきて右調書を書き写し、検察官調書を作成した。その後二四日に起訴されるまで、Cは、一九日に加えられた暴行、脅迫の影響により取調官に畏怖した状態で調書に署名指印した。平成五年一月一三日、岩迫警部補から「マルサの女」と「お葬式」のビデオを見たことを認めるよう迫られ、拒否すると、道路地図で頭、肩、胸を小突かれ、『お前な、弾というものはけん銃で撃たれたら入るときは一センチ位の大きさだが、出るときは一〇センチ位の大きさになるのだぞ、お前そんな姿を嫁さんの前で見せたいか。』と脅迫され、改めて恐怖感がよみがえり、一方、検察官からは執行猶予にすると言われて懐柔され、起訴後も調書に署名指印した。」

(二) 被告人Cが逮捕勾留時風邪をひいていたとことは事実であるが、起訴までの間四回警察病院で診療を受けており、同被告人の体調に対し相応の配慮がされている。また、被告人Cに対する取調べは連日行われているが、警視庁本部留置管理課長作成の出入場状況一覧表(検甲113・114)によれば、起訴までの間、取調べのため同被告人の最終の入房時刻が午後一〇時を過ぎたのは、二一日(午後一一時二八分)、二二日(翌二三日午前零時六分)の二回のみ(初めて自白調書が作成された一九日は午後九時四七分)であり、同被告人に対する取調べが過酷であったとまではいえない。

被告人Cが岩迫警部補や多田巡査部長から暴行を受けたと言う一九日の状況についてみると、同被告人は、当公判廷において、「岩迫刑事から、Fの調書に合わせてある、Fが言っているから間違いないから認めてしまえと言われ、調書とボールペンを目の前に置かれて署名を求められた。強く拒否しているうち乱暴されそうな雰囲気になり、ボールペンで手を突けばサインできないだろうと思い右手を突いたとき、二人から首を絞められたり殴られたりされた。自傷行為を制止するため暴行されたのではない。」旨述べるけれども、調書に署名させるのに取調官二人があたかも示し合わせたかのように暴行を加えたというのはいかにも唐突な感を免れず、翌二〇日朝接見した弁護人にCがその事実を訴えていないのも不自然である。さらに、Cの一二月一九日付け供述調書には、Fの調書では述べられていないC固有の内容、すなわち伊丹プロダクションの住所をマスコミ関係の本で調べたことや、登記申請の際伊丹プロダクションと書いて伊丹十三事務所と訂正されたこと等が録取されている一方、F調書で述べられている被告人Aの関与の状況については録取されていないのであって、Cの言うようにFの調書が丸々前提にされてCの一九日付け調書が作成されたというものでもない。この時の状況について、岩迫警部補は、当公判廷において、「Cは逮捕後しばらくして事実関係を認めるようになったが、組織から抹殺されるのではないかと怯えていて調書の作成には応じようとしなかった。一九日午後の取調べにおいて、調書に署名をするよう説得していると、思い詰めたCがいきなり左手でボールペンを握って右手の甲を突くという自傷行為に出たので、多田巡査部長と二人でCの両手を押さえ、ボールペンを取り上げて制止した。Cは落ち着くと受刑後面倒を見てほしいと頼んできたので、堅気になってつとめを終えてきたら自分のところに来るよう話したところ、ようやく決意して調書に署名した。」旨証言しており、この証言の方が経過として自然であり、信用性が高いと判断される。

起訴後の翌五年一月一三日の状況についても、岩迫証言が暴行の事実を明確に否定していることに加え、起訴から三週間近く経過したころに、伊丹のビデオを見たとの事実を認めさせるため取調官が暴行を加えなければならないような必然性は見い出せないこと、その時調書は作成されておらず、その後作成された調書にもそうした事実は録取されていないことを考えると、この点に関するCの供述も信用できたい。

以上のとおり、被告人Cの各供述調書にはその任意性を疑わせる事情はなく、いずれも証拠能力があると判断される。

三 自白の信用性

被告人Cの自白は、被告人Aから伊丹監督襲撃の計画を持ち掛けられ、ホテルに潜伏し、Fに頼んだり自分で本屋を回るなどして伊丹の住所等を調査した経過や、Aと下見に行った状況、戊田会組員のJに伊丹のビデオを借りてこさせた状況等を詳細、具体的に述べていて甚だ臨場感に富み、メモのマあるいはアとの記載の意味や伊丹プロダクションの住所を突き止めた方法等自分しか知り得ない体験的内容が随所に含まれている。しかも、当初は自己の関与した事実のみを述べ、これを指示した人物については、「ある人」あるいは「甲」として実名を明かすことを避けていたが、やがて、指揮者は被告人Aで、同人と共に下見したこと、その指示を受けてビデオを借りてこさせたこと等の事実を述べるに至っており、この供述経過も供述の自発性をうかがわせるものである。また、前記第三章第二の1ないし4の客観的事実やF供述、後記の被告人Aの自白とも大筋において合致している。

このように考えると、被告人Cの自白は、凶器の処分方法等について述べられていないなど弁護人指摘の点を考慮しても、十分信用するに足りると判断される。

第二  被告人Aの自白

一 供述経過、供述内容等

被告人Aは、逮捕後警視庁北沢警察署に勾留され、平成四年一二月一九日まで同署で取調べを受け、同月二〇日以降は警視庁本部で取調べを受けていたが、同月二三日の取調べが延び翌二四日午前零時を過ぎてから、古賀警部の取調べで初めて犯行を自白し、石井巡査部長による二通の調書(検乙1・2)が作成された。これらの調書は、身上、経歴のほか事実関係としては伊丹監督襲撃事件が被告人ら五名で行ったことを認める簡単な内容のもので、二四日朝からの検察官の取調べにおいて、犯行の概略を次のとおり述べる二通の自白調書(検乙3・4)が作成されている。

「伊丹がミンボーの女という映画を作りやくざをばかにした発言をしていたので腹立たしく思い、Cにその所在を調査するよう指示し、関係する会社の登記簿謄本を取ってこさせた。そのころ、Cから伊丹プロダクションの所在地等の書かれたメモを受け取り、そのうちの一枚に「池内岳彦」と書き込んだ。Cとは、二人でBMWに乗り伊丹が出入りすると思われる会社を何度か下見に行った。Dにも伊丹襲撃の話を持ち掛けたところすぐ応じたので、連絡を取り合いながら準備を進めた。BとEにも、計画に加わるよう誘った。その後、自分とCの組と、D、B、Eの組に分かれて、伊丹プロダクションの事務所や伊丹の自宅を下見したり見張ったりするようになった。世田谷区赤堤の住居は自分が伊丹プロダクションから車で尾行して突き止めたと思う。Cと二、三度伊丹の自宅を下見に行ったが、家の前の車の往来が少なかったことから襲撃場所は家の前あたりがいいと考え、Dに話したところ、Dも同意した。Dとはチャンスがあれば襲撃するという暗黙の了解ができており、顔を切ってやろうという話もしていた。五月二二日、Cと二人で伊丹プロダクションの様子を見に行ったところ、伊丹のベントレーがなかったので、Dにこれを伝えた。そのときDはB、Eと一緒に行動していた。夜、Dから伊丹を襲撃したとの連絡があったので、戊原で会う約束をしてCと二人で待っていると、Dが、B、Eとやって来て、『丁度伊丹が帰ってきたので俺が顔を切ってきた。』と話した。Dの胸あたりに血が付いていたので着替えをさせ、血の付いた服と凶器はCに処分するように言って持って行かせた。Dらが犯行に使った車は灰色系のローレルで、別の車のナンバーを付けようとDと相談しており、Cにナンバープレートの調達を頼んだが手に入らなかったため、どこかのインターの近くにあった事故車のナンバープレートを盗んできてDに渡した。」

二 自白の任意性

(一) 弁護人は、(1)被告人Aは、警視庁本部で取調べを受けるようになってから、連日自白剤と目される薬物を茶やコーヒーに混入して飲用させられ、深夜に及ぶ取調べを受けて疲労困憊し、意識が朦朧となっていた。(2)当初取調べを担当していた田村警部補や、平成四年一二月二三日夕刻から田村警部補に替わって調べを担当した古賀俊明警部から、「お前の組なんか潰しちゃう。お前の親分もパクるし、神戸の親分も警視庁に呼んで事情聴取をするぞ。神戸の本家にも何回でもガサを入れてやるからな。」等と脅迫され、上層部に被害が及ぶことを恐れた、(3)二四日午前零時ころ、古賀警部から、被告人Dが自白した旨言われて接見禁止中の同人の取調室に連れて行かれ、その憔悴した様子を見てDが既に自供したものと誤信し、自分もしょっていく決意を固め、午前二時ころまでの間に、既に作成してあった身上経歴調書と、犯行への関与を簡単に認めた二丁の調書、一五丁位の調書に署名した、(4)二四日、検察官は、その一五丁位の警察官調書を書き写すようにして二通の調書を作成した、以上のとおり主張し、被告人Aの司法警察員(二通)及び検察官(二通)に対する各供述調書の任意性を争い(一五丁位の警察官調書なるものは法廷に顕出されておらず、検察官は司法警察員に対する調書は二通しか存在しないと釈明している。)、被告人Aも、当公判廷において、弁護人の右主張に沿う供述をしている。

(二) 警視庁北沢警察署長作成の出入場状況一覧表(検甲109・110)によれば、起訴までの間、被告人Aの北沢警察署への入房が取調べのため午後一〇時を過ぎたのは、二〇日(午後一〇時一七分)、二一日(午後一一時)、二二日(二三日午前零時三〇分)、二三日(二四日午前二時三七分)の四回であることが認められ、二〇日以降夜間に及ぶ取調べが行われたことは弁護人指摘のとおりであるが、深夜零時を超えて取調べが行われたのは二日間であり、このことをもって直ちに任意性に疑いが生ずる取調べであったとはいえない。

自白剤を飲用させられたという点については、元々突飛な発想という感が免れないし、同被告人は特に具体的な根拠を挙げて述べているわけではなく、かえって茶やコーヒーの味や香りの変化には気が付かなかったというのであるから、この供述をにわかに信用することはできない。

被告人A及び同Dに対する取調べ状況については、前記古賀警部、同人の補助者として被告人Dの取調べにあたった飯島英夫巡査部長、古賀に先立ち被告人Aを取り調べた田村三郎警部補は、当公判廷において、被告人A、同Dの取調べ状況につき次のように供述している。これらの証言は相互に符合しているだけでなく、取調べの経過、状況として不自然、不合理な点はなく、おおむね信用してよいと考えられる。

(1) 古賀俊明の証言

「一二月二二日午前一一時過ぎから飯島部長と二人でDの取調べにあたり、夜の調べでI子の話などをするうち、Dは『独り言を言うよ。』と前置きして五人が犯人であることを認めるに至った。その日は調書を作成しなかったところ、翌二三日には、接見した弁護人から撤回するよう言われたということで再び否認に転じた。説得を続けるうち、午後九時ころ再び自供し、二四日午前零時少し過ぎころ五丁の調書に署名した。そのころ、Aを調べていた田村警部補の具合が悪くなったとの連絡があったので、Aの調べ室に行きAと二人で話をした。Aは田村警部補の容態や上層部への影響を心配していたので、田村警部補は医者に行っているから大丈夫であるとか、Aが自供していないのに上をやれるわけはないというような話をした。Aはなおも否認でいかせて欲しいと言っていたが、DがAのことを非常に面倒見のいい人間で、堅気になってもついていきたいと話していたことなどを伝えて説得を続けているうち、調書の作成に応じるに至った。Aはしきりに田村さんに調書を取らせたかったと言っていた。既に時間も遅かったし、Aは首謀者であるので概略で十分と思い、具体的な状況までは聞かずに二丁の調書を作成した。この他には調書は作成していない。午前一時過ぎに署名を終えたが、Aが大分落ち込んでいたので少したばこを吸わせたりしてゆっくりさせ、その間自分はDの調べ室に戻った。午前一時半ころトイレに立った際、廊下で北沢署の留置場に帰る途中のAに会い、AはDがまだ取調べを受けていることが分かったようで、突然ドアの少し開いていたDの調べ室に顔を出して『俺は堅気になるから。』と言った。予想外のことで制止する間もなく、急いで退室させた。その後Fから他の連中とも会わせて欲しいと頼まれたが断念させ、Aは午前二時ころ警視庁を出た。」

(2) 飯島英夫の証言

「一二月二二日午前一一時過ぎから古賀警部の補助者としてDの取調べにあたっていたが、午後九時ころになってDは『独り言を言うよ。』と前置きして五人が犯人であることを認めるに至った。その日調書を作成しなかったところ、翌二三日には、朝接見した弁護人から撤回するよう言われたということで再び否認に転じていた。説得を続けるうち、午後九時ころ再び自供し、午前零時少し過ぎころ五丁の調書に署名した。その後古賀警部は一時間ほどAの調べ室に行っていたが、再び戻ってきて、Aの指示の点などさらに調べをしていた。古賀警部が途中トイレに立った際、部屋の換気のために開けていた調べ室のドアからAが顔を出して俺は堅気になるというようなことを言いすぐ引っ込んだことがあった。この日他には調書を作成していない。」

(3) 田村三郎の証言

「Aは逮捕された当初『今は何も言いたくない。』と言っていたが、一〇日くらい経ってから、五人が犯行に関与していることを事実上認めるようになった。しかし、否認のままいかせて欲しいと言い、供述調書の作成には至らなかった。二四日午前零時ころ、取調べをしている途中血圧が急に高くなったため警察病院に行き、Aの取調べは古賀警部に交替してもらった。」

被告人Aの自供の経緯は右のとおりであり、被告人Dと偶々顔を合わせたことがあったとしても、自白の任意性に何らかの影響を与えたとは考えられないし、組の上層部への影響を恐れて自供したとも認められない。

以上を総合すれば、被告人Aの前記各供述調書はいずれも証拠能力を有すると判断される。

三 自白の信用性

被告人Aの自白は、被告人C、同D、同B、同Eに対し、順次伊丹監督襲撃の計画を持ち掛け、Cには伊丹関係の会社の所在地等を調べさせて一緒に下見に行くなどし、Dとは襲撃場所や襲撃方法を打ち合わせた状況、犯行当日伊丹の帰宅が夜になることが判明したため実行を指示した経過等を概括的ながら述べていて、前記第三章第二の1、3及び4の客観的事実とも合致し、被告人C、同Dの自白とも主要な部分において符合していることを考えると、根幹において信用するに足りると判断されるのであって、伊丹監督の自宅を突き止めた方法や犯行当日の行動経過等について、被告人Cや同Dの供述と必ずしも一致しておらず、不明な部分が若干あるにしても、Aの自供全体の信用性を左右するものではない。

第三  被告人Dの自白

一 供述経過、供述内容等

被告人Dは、逮捕後警視庁愛宕警察署に勾留されて同署で取調べを受け、平成四年一二月二一日以降は警視庁本部で取調べを受けていたが、一二月二三日の取調べが延び翌二四日午前零時を過ぎて、初めての自白調書(検乙64)が作成された。この調書は、「被告人ら五人でテレビを見ていたとき伊丹監督がやくざを馬鹿にしたようなことを言ってたので、誰かが、ちょっと懲らしめてやろうと言い、皆で賛成し、伊丹監督の自宅や事務所を調べるため動き出した。五月二二日BとEを連れて伊丹監督の自宅を下見に行った時、午後八時三〇分ころ伊丹監督がベントレーに乗って帰宅し、その顔を見てカーッとなり車にあったナイフを持って同人の背後から顔を切り逃げた。この事件はAの指示を受けないで勝手にやったものである。」と述べているもので、二四日午前中の検察官の取調べにおいて、犯行の概略を次のとおり述べる二通の自白調書(検乙43・44)が作成されている。「平成四年五月上旬ころ、Aに呼び出されて喫茶店で会い、伊丹襲撃に加わるよう誘われた。その日伊丹の会社を下見するため六本木まで行ったが、私とAのほか、B、C、Eが居たので、この五人で伊丹を襲撃することが分かった。Aは指揮官で、Cが情報収集担当、私とB、Eが実行部隊であった。伊丹の自宅を探るため何度か伊丹の後をつけようとしたがうまくいかず、会社の前の伊丹と書かれた駐車場に停まっていたポルシェのナンバーを照会したりしていたが、結局本か何かで調べ、私とAでその住所地に行ってみたところそのポルシェが停まっていたので、伊丹の自宅と分かった。伊丹が夜車で帰って来たところを襲おうと考え、交替で伊丹の会社や自宅を見張っていたが、伊丹は明るいうちに帰宅し、なかなか襲撃の機会がなかった。五月二二日夕方AとCが伊丹宅に偵察に行き、午後七時ころ戊原に電話をかけてきて、伊丹がまだ帰ってきていないので今日襲撃するよう指示された。私とB、Eは午後八時ころ戊原を出て、Eがローレルを運転し、Bがその助手席、私が後部座席に乗って、環七を通って赤堤の伊丹宅に向かった。ローレルには、誰かがどこかで手に入れてきたナンバープレートが両面テープで貼り付けてあった。後ろのプレートは、陸運局の封印の部分を丸く切り抜いて浮かないようにしてあった。午後八時半ころ伊丹宅に着いたときにはベントレーはまだ戻ってきていなかったので、付近を一回りし、その間に野球帽のような帽子をかぶり、すべり止めの付いた軍手をつけた。伊丹宅前に戻ると、丁度ベントレーが駐車場に停まり、伊丹が左側のドアを開けて外に降りたところだったので、焦って、Aから渡されていた折り畳み式ナイフを右手に持ってローレルから降り、伊丹に向かって一目散に走った。伊丹は、運転席のシートを倒して後部座席に上半身を入れ何かを取ろうとしており、その左頬を背後から右手に持ったナイフを右から左に動かす格好で切り付けた。さらに、後ろから乗りかかるような格好で手を伸ばし、もう一度左頬を切り付けた。左手はベントレーのどこかを掴んでいたが、伊丹の体のどこかにかけていたと思う。伊丹はナイフを持っている私の手を押さえてきたので、振りほどこうとして手を動かし、その際ナイフの刃が伊丹に当たった。伊丹の顔は血だらけになっていた。足で伊丹のもものあたりを蹴って伊丹の手を振りほどき、ローレルに向かって走って逃げると、BとEは既に私より前を走っていた。運転席に乗り込み、発進しようとしてミラーで後方を見ると、伊丹が車の後ろにしゃがみこんでナンバーを確認しようとしていた。エンジンはかけっぱなしにしていたので、すぐ発進し、環八に出て右折し、さらに大原交差点を右折して高速に入り、初台のあたりで高速から降り、いったん停まってEに運転を交替した。新宿でナンバープレートを外して戊原に戻り、五分くらいでシャワーを浴びて着替え、AにBMWで新宿駅まで送ってもらい、午後一一時ころ厚木の自宅に戻った。」

二 自白の任意性

(一) 弁護人は、(1)被告人Dは、平成四年一二月一九日、検察官の取調べを拒否して取調室から退室しようとしたが、騒ぎを聞いて駆けつけた石田、佐川、佐古の三名の警察官に押し戻され、なおも机の上を通って取調室から出ようとしたところ、右警察官に手錠をかけられた上頚部を絞め付けられ、後頭部を壁に打ち付けられる暴行を受け、検察官もその間「やっちゃえ。」等と右暴行を煽っていた、(2)警視庁本部で取調べを受けるようになってから、連日自白剤と目される薬物をコーヒー等に混入されたり、バッファリンと称して服用させられ、深夜に及ぶ取調べを受けて疲労困憊し、意識が朦朧となっていた、(3)同月二四日午前零時過ぎころ、古賀警部から、「お前らが認めて背負っていかなければ組長のD”をしょっぴく。五代目も事情聴取をし、神戸の本家にガサを入れる。」等と脅迫された、(4)そのころ、古賀警部が被告人Aを取調室に連れてきて、Aが「やくざをやめたぞ。」と言ったことから、背負っていけという意味だと判断し、自白する決意をして調書に署名指印し、その後検察官が警察官調書を書き写して調書を作成した、以上のとおり主張して、被告人Dの司法警察員(一通)及び検察官(二通)に対する二四日付け各供述調書の任意性を争い、被告人Dも、当公判廷において、弁護人の右主張に沿う供述をしている。

(二) 警視庁愛宕警察署長作成の出入状況一覧表(検甲115・116)によれば、起訴までの間、被告人三国の愛宕警察署への入房が午後一〇時を過ぎたのは、一五日(午後一〇時二五分)、二一日(午後一〇時五五分)、二二日(二三日午前一時一〇分)、二三日(二四日午前二時二三分)の四回であることが認められ、二〇日以降夜間に及ぶ取調べが行われたことは弁護人指摘のとおりであるが、深夜零時を超えて取調べが行われたのは二日間であり、このことをもって直ちに任意性に疑いが生ずる取調べであったとはいえない。

自白剤を飲用させられたという点については、これを疑わせる証拠はなく、信用できないことは被告人Aと同様である。

被告人Dの取調べ状況については、古賀警部、飯島巡査部長が前記のとおり証言するほか、一二月一九日まで同被告人の取調べにあたった石田靖警部補は、当公判廷で次のとおり証言している。

「Dは、一二月五日の検察官の取調べの際、検察官の前の長い机をひっくり返し自分の座っていた椅子を振り上げ、勾留質問の時には、裁判官に大声を出したり部屋から出ようとしたという報告を受けた。一二月一九日愛宕警察署での取調べにおいて、午後二時半ころ検察官と取調べを交替し、近くの取調室で待機していたところ、Dが怒鳴る大声と何か物を投げるような音が聞こえてきたので、Dがまた暴れているのではないかと思い、急いで調べ室に入ると、Dが机の上に足を乗せ検察官に殴りかかろうとしているところだった。Dに『止めろ。』と警告すると、Dは机に乗せていた足を降ろし、『お前も一緒か。』等とわめきながら左顔面をげんこつで一発殴ってきた。佐古巡査と佐川巡査部長が壁のあたりでDの肩や腕を両側から掴まえて制止したが、Dはなおも暴れていて、壁に押し付けても腕を振りほどこうとして抵抗したので、手錠をかけたところようやくおとなしくなった。その後Dの取調べは担当しなかった。」

石田の証言は右のとおりであって、Dが一九日取調べをしようとした検察官に暴行を加えようとし、石田らがこれを制止した状況を具体的に証言しており、Dのそれまでの取調べの際の粗暴な言動を考えると、石田証言に偽りは感じられない。これに対し、取調べを拒否して退室しようとしたDに対し検察官も一体となって暴行を加えたというDの供述は、あまりにも状況にそぐわないし、当時連日接見を受けていた弁護人に暴行の事実を訴えた様子もないことからすると、たやすく信用するわけにはいかない。

一二月二四日にDの自供調書が作成されるに至った経緯については、前記古賀警部や飯島巡査部長が証言しているとおりであって、Dは、調書が作成される前の二二日の取調べで既に古賀警部に、「独り言を言う。」と言って、犯人が被告人ら五人であることを認め、翌二三日弁護人の接見により再び否認に転じたものの、説得の結果再び自白するようになり、その結果調書の作成にまで至ったものである。初めての警察官調書で、被告人Aが指揮者であったことを否定し自分の判断で犯行を実行したという調書しか取らせなかったDが、それまで強く反発していた検察官の取調べにおいて、Aが指揮者であることを認めるとともに、事実関係を相当詳細に述べているのは、自白の任意性をうかがわせる事情とみてよい。これに対し、Dは、Aに会わされ、「やくざをやめたぞ。」というAの言葉を聞き背負っていけという意味に解し偽りの自白をしたと言うが、Dが二二日の段階で既に自供し始めていることは前記のとおりであり、さらに、Dは、検察官調書は警察官調書を書き写したものであると言うけれども、警察官調書はAが指揮者でない点を強調した比較的簡単な内容であり、検察官調書がこれを書き写したとは到底みれない詳しい内容を含んでいること等に照らし、Dのこの点に関する供述は信用できない。

以上のとおり、被告人Dの自白に任意性を疑わせる事情はなく、Dの前記各供述調書はいずれも証拠能力を有すると判断される。

三 自白の信用性

被告人Dの自白は、被告人Aから伊丹監督襲撃の計画を持ち掛けられ、犯行の機会をうかがいながら、実行に及んだ経過を具体的に述べており、とりわけ、伊丹監督を数回にわたり切り付け、その際伊丹に手を押さえられて揉み合いとなり、太腿部を蹴って振りほどき逃走した状況は甚だ迫真性に富み、伊丹監督の述べる被害状況と合致する。そして、被告人Aの自白内容とも大筋において一致している。弁護人は、身長一六二センチメートルのDが、身長一七九センチメートルの伊丹の顔面に傷を負わせることは不可能であるとして、写真撮影報告書(弁49・61)を提出しているが、両者の体勢如何によっては十分可能と考えられるし、また、凶器のナイフの処分方法等について不明な点があることは事実であるが、自白全体の信用性に影響を及ぼすものではない。したがって、被告人Dの自白は、細部はともかく、事実の主要部分は十分信用することができる。

第六章  まとめ

以上のとおり、関係証拠に、その任意性及び信用性の十分認められる被告人C、同A、同Dの自白を総合すると、本件犯行は、判示のとおり、被告人らが共謀して実行したものであると断定でき、被告人Aが、伊丹襲撃を企図し、平成四年四月中旬ころから五月上旬ころにかけて、被告人C、同D、同B、同Eに、順次本件犯行への加担を呼び掛け、共謀の上、Aの指揮のもと犯行の準備を進め、交替で伊丹の自宅等を見張り、伊丹の帰宅が夜になる機会をうかがい、五月二二日午後七時ころ、伊丹が帰宅していないことが判明したため、被告人D、同B、同Eが伊丹宅に向かい、午後八時三〇分ころ、帰宅した伊丹が車から降り立ったところを被告人Dがナイフで切り付けたものと認められる。

(累犯前科)

1  被告人Aは、昭和六一年一月一三日、神戸地方裁判所で、公務執行妨害、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反、恐喝、恐喝未遂、暴力行為等処罰に関する法律違反、建造物損壊の各罪により、懲役五年に処せられ、平成二年九月一三日右刑の執行を受け終わったもので、この事実は、同被告人にかかる前科調書及び右判決書謄本により認められる。

2  被告人Bは、昭和六二年七月一六日、静岡地方裁判所富士支部で、恐喝未遂、道路交通法違反の各罪により、懲役一年一〇月に処せられ、平成元年四月五日右刑の執行を受け終わったもので、この事実は、同被告人にかかる前科調書及び右判決書謄本により認められる。

(法令の適用)

被告人らの判示所為は、いずれも平成七年法律第九一号による改正前の刑法六〇条、二〇四条に該当するが、所定刑中懲役刑を選択し、被告人A及び同Bについては、前記の前科があるので、いずれも右刑法五六条一項、五七条により再犯の加重をし、各刑期の範囲内で、被告人らをそれぞれ主文掲記の刑に処し、右刑法二一条を適用して未決勾留日数中各一〇〇〇日をそれぞれその刑に算入し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項本文、一八二条により全部被告人らに連帯負担させることとする。

(量刑の理由)

一  本件は、暴力団構成員である被告人ら五名が、共謀の上、映画監督、俳優等として活躍していた伊丹十三の帰宅時をねらって襲撃し、刃物を用いて顔面等に重傷を負わせた事案である。

伊丹監督は、映画「ミンボーの女」において暴力団による民事介入暴力の実態を描き、テレビ、新聞等における発言の場を通じて、暴力団を批判し、市民が暴力団と毅然と対決して社会から暴力団を排除していくべきことを広く訴えていたのに対し、被告人らは、右の言動が暴力団を侮辱するものとして憤激し、伊丹監督を傷付け、懲らしめることにより、暴力団の存在を誇示しようとしたもので、本件犯行の動機は、自己の意に沿わぬ考えを力で圧殺しようとする暴力団特有の発想に基づくものというほかなく、自由な意見の表明を基礎にした我が国社会に対する挑戦であり、法治国家として到底許されない卑劣な犯行であって、全く酌量の余地がない。

被告人らは、法廷において、全員アリバイを主張し、犯行を全面的に争っているため、事件の組織的背景や犯行の具体的態様等について分明でない点もあるが、前述のとおり、本件は、被告人Aを首謀者とし、東京都内の暴力団関連会社等を拠点としながら、それぞれ分担して被害者の車や関係会社を調査したり、被害者宅等を下見したりするなど周到な準備をした上で行われた組織的計画的な犯行であり、この点においても犯情は甚だ悪質である。

二  被害者は、当日、仕事先から一人車で帰宅し、自宅前の駐車場に車を停め、車内から荷物を取り出そうとかがみ込んだ無防備な体勢のところを、突然、背後から車内に押し込まれ、鋭利な刃物で顔面等を数回にわたり切り付けられており、生命をも奪われかねない危険な状況に陥れられた被害者の恐怖はいかばかりかと察せられる。そして、本件犯行により被害者の受けた傷は全治まで約三か月を要するほどの重篤なもので、顔面の傷は相当深く、左手背部の切創は伸筋腱の断裂により小指が曲がらない後遺症を残している。このように被害者の被った肉体的、精神的苦痛は甚大であったと思われ、被害を目の当たりにした家族や関係者らの受けた衝撃や不安にも計り知れないものがある。

三  さらに、本件犯行は、暴力を背景に市民生活に不当に介入し利益を得ようとする暴力団を排除する機運が高まり、「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(暴対法)」が施行されるなどして、暴力団一掃の国民の願いが現実化しようとした矢先に敢行されており、国民に少なからぬ衝撃を与えるなど社会に及ぼした影響も大きい。

四  個別の犯情をみると、被告人Aは、同系列下の組員四名を実行犯や情報収集役として指揮し、被害者の行動状況等について逐一報告を受けつつ本件を遂行するなど、本件犯行全体を主導した者として責任は最も重く、被告人Dは、Aの指揮の下に被害者に切り付けた実行犯として、被告人Aに次いでその責任は重い。被告人B、同EはDと共に犯行現場に赴き、犯行後の逃走に助力し、また被告人Cは、被害者の関係会社の登記簿謄本を入手したり、関連会社を下見するなどしているのであって、右三名の役割も軽くみることはできない。

五  このように本件犯行の性質、態様、被害の程度、被告人らの役割、関与の程度、社会に与えた影響、被告人らの前科関係、暴力団の構成員としての活動状況等を総合考慮すると、被告人らに対しては、主文の刑を科するのが相当である。

平成八年一〇月二三日

東京地方裁判所刑事第二部

(裁判長裁判官 田尾健二郎 裁判官 菊池則明 裁判官 杉原奈奈)

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